飛鳥、奈良、平安時代の約600年間に存在した都とその周辺の当時の地形を復元しています。難波京(現在の大阪)周辺の海岸線が現在とは異なり、大阪の東には「草香江」という大きな池があり、平安京(現在の京都)の南に「巨椋池」(おぐらいけ)があるのが見えます。約600年間には飛鳥京、難波京、大津京、藤原京(新益京)、平城京、恭仁京、甲賀京(紫香楽宮)、平安京と遷都されましたが、都の移り変わりを示すために、全ての都を記載しています。
この地図の範囲で、百人一首に詠われた場所または百人一首の歌人のゆかりの地をピンク色の文字で表記しています。百人一首の地図はこちらをご覧ください。
都が遷都されると、前の都の多くはしばらくすると荒れ果ててしまうか、田畑になってしまいました。それぞれの都は、造営した(あるいは計画された)最大規模で記載しています。平安京は都の西側は湿地が多く頻繁な水害のために、徐々に人が東側に移ってしまい、平安時代中期までには都の東西の中心が東側に移りました。
甲賀京(紫香楽宮)は遷都の詔は出されましたが、遷都されずに終わりました。平安時代末期に平清盛の計画だけで建設されずに終わった福原の都、南北朝時代に南朝の都となった吉野行宮(あんぐう・一時的な仮の天皇居所)もあわせて記載しています。
都の範囲は、都が計画され造成された当時の範囲を想定しています。都内の条坊制(碁盤の目状の)道路は全ては記載していません。
・平安京は右京(西側。御所から街を見て右側)が水害が繰り返され、中心が左京(東側、御所から見て左側)に移っていきました。発掘調査結果からすると概ね900年代後半には街の中心が東側に移ってしまい、1000年代以降は右京(西側)で発掘される遺跡がぐっと減っており寂れてしまったようです。
・藤原京は発掘調査の結果、大和三山(耳成山、畝傍山 、天香久山)を含む東西5.3km、南北5.3km程度の大きな都でした。
地図の出典
この地図は、以下の国土地理院・地理院タイルを基に、平安時代前期頃の地形を想定して「参考文献」で記載した資料を参照して修正しています。
国土地理院・地理院タイル https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html
標準地図(電子国土基本図)、色別標高図 (海域部は単色にして作成)
都の移り変わり
飛鳥時代(593年以降)に飛鳥京に都が置かれました。それ以降は遷都がたびたび行われて、都の場所が移り変わりました。
飛鳥時代の前の古墳時代の記録では、仁徳天皇(日本書記によれば生年西暦257年、没年西暦399年。注1)の宮居を難波(現在の大阪市)としていますが、場所は不明です。
(注1: 日本書記の飛鳥時代以前の記録は、天皇が非現実的な長寿であるなどの理由から、神話レベルの信頼性になっています。飛鳥時代の推古天皇以降は実在した天皇と考えられています。)
- 593年 推古天皇が飛鳥の豊浦宮(現在の奈良県明日香村、奈良の南隣り)で即位しました。これ以降、飛鳥の地が飛鳥京となりました。
- 645年 飛鳥京の中で天皇の在所である宮の場所は移っていました。乙巳の変で、中大兄皇子(後の天智天皇)が蘇我入鹿を討った場所は飛鳥京・天蓋宮でした。
- 651年 幸徳天皇は、難波京(なにわきょう)(現在の大阪)長柄豊埼宮へ遷都しました。これは奈良時代の後期難波京に対して、前期難波京と呼ばれます。
686年には火事があり難波京の建物が焼失してしまいます。 - 667年 天智天皇は、近江国・大津京(現在の滋賀県大津市・琵琶湖の南西部)へと遷都しました。
- 672年 壬申の乱にて大海皇人が弘文天皇(大友皇子)を討ち、天武天皇に即位して飛鳥京・浄御原宮へと遷都しました。
- 694年 大和国、藤原京(藤原京は現在の通称。日本書記に書かれた名前は新益京(あらましきょう))へ遷都しました。藤原京は、天武天皇が造営を始め、皇后であった鸕野讚良が持統天皇として即位した後に完成させ遷都しました。これが唐の国の条坊制(東西南北に碁盤の目のように道を配する都市計画)による最初の都市となりました。「新しい国造りは、新しい都作りから」という考えで遷都されたものと考えられています。
- 710年 元明天皇は、大和国・平城京(現在の奈良市)へと遷都しました。この時点では平城京は部分的に造営されただけで、都全体は造営中でした。
- 740年 聖武天皇は、平城京の北東にある山城国・恭仁京へと遷都しました。勅令による正式名は大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)です。遷都の理由は、藤原氏の影響から離れ、橘氏に近い地に都を移したかったことと考えられています。この頃すでに藤原氏は圧倒的な力を持っていましたが、藤原広嗣の乱が起き、その最中に東国行幸をして恭仁京の場所に至り、遷都を命じました。
- 742年 聖武天皇は、紫香楽宮(しがらきゅう)(信楽宮)へ離宮を造営します。後にこの地への遷都を命じますが、この時は遷都ではなく離宮造営でした。恭仁京との間に恭仁京東北道が作られますが、どこを通った道なのかは定説がありません。
- 744年 聖武天皇は、難波京へと遷都します。これは飛鳥時代の前期難波京に対して、後期難波京と呼ばれています。近年の発掘の結果から、正方形の条坊制の都であったとされています。
- 745年 聖武天皇は仏教を深く信仰しており、紫香楽宮の地に大仏建造を始めます。やがて紫香楽宮を甲賀宮と名前を変え、745年にこの地を都として甲賀京とする詔を出しました。正確な範囲は不明です。しかし天平地震が起き、頻繁に起きていた天然痘の流行、頻繁な遷都による人民と経済の疲弊、紫香楽宮付近の不審火などにより、反対の声が強く大仏造営および遷都の計画を断念します。
- 745年 聖武天皇は、紫香楽宮(甲賀京)への遷都を断念して平城京(現在の奈良)へと遷都します。聖武天皇は平城京で大仏造営計画を再開し、孝謙天皇に譲位したのちに東大寺大仏として完成させます。平城京と飛鳥京の間には街道として中ツ道と下ツ道が作られました。難波と平城京の間には、暗峠を通る奈良街道(大阪街道)が作られました。
- 784年 桓武天皇は、山城国・長岡京(現在の京都府・長岡京市、京都府向日市)へと遷都します。長岡京は平城京、平安京と同程度の規模の都市でした。長岡京は、生活や物資輸送に必要な淀川、桂川などの水路に恵まれ、近くに巨大な巨椋池(現在は埋め立てられて存在しない)があり、平城京で問題となっていた下水対策もされました。
- 794年 桓武天皇は、山城国・平安京(現在の京都市)へ遷都します。これは早良親王の祟りを避けるための遷都であると考えられています。造長岡宮使であった藤原種継が785年に暗殺され、桓武天皇の弟である早良親王が暗殺事件に関与したとして配流されましたが、無実を主張して絶食して憤死しました。その後、疫病、日照、飢饉、桓武天皇の近親者の死去が続き、792年に大雨で平城京内の川が氾濫し、これらは早良親王の祟りとされ、翌年793年には祟りを避けるために再度の遷都を決定しました。
桓武天皇は平城京からの遷都を禁止する詔を出しました。 - 810年 平城上皇は平城京へ戻る遷都の詔を出しましたが遷都は失敗しました。平城天皇は嵯峨天皇に譲位して太政天皇(上皇)となりましたが、桓武天皇の遷都禁止の詔に従わず平城京へ都遷都する詔を出しました。この当時は天皇が譲位して太政天皇(=上皇)となった場合は、公的には上皇が天皇と同等の権力を持っていたため、嵯峨天皇と平城上皇の二つの朝廷が存在するかのような状態になっていました。嵯峨天皇は表面上は平城上皇に従いつつ、蝦夷征討で武名の高い坂上田村麻呂を平城京の造営使者として派遣して警戒させました。やがて嵯峨天皇は、平城上皇側について策謀していた藤原式家の藤原薬師を追放し藤原仲成を逮捕しました。平城上皇は挙兵しましたが、坂上田村麻呂に機先を制され、断念して剃髪します。
一連の騒動は薬師の変と呼ばれますが、平城京への遷都は失敗に終わり、平安京が都のままとなります。「京」は元々都を指す言葉ですが、平安京での都が長く続き、平安京はやがて京、京の都、京都と呼ばれるようになります。
藤原氏(藤原鎌足、藤原不比等の子孫)は複数の家系がありますが、その中の一つの藤原式家は、藤原弘嗣の乱や薬師の変を起こしたことで没落し、それ以降藤原北家が最も繁栄していきます。嵯峨天皇は、天皇の位を譲位した時に即位した新たな天皇から前の天皇へ「太政天皇(=上皇)」の尊号を与えるように変更し、これにより上皇と天皇両方が権力を持つのでなく、公式に天皇に権力が集中するようになります。
ちなみに、後世に行われる院政では、天皇の位を譲位して上皇となり、上皇が天皇を私的に補佐するという形式をとることで権力を行使したものです。 - 1180年 平清盛が権力を掌握してる時代に、和田、福原に都を移す計画が立てられましたが実行されませんでした。摂津国・福原(現在の兵庫県神戸市兵庫区)へ、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行われ、福原に行宮(あんぐう、天皇の一時的な仮の宮)が設けられました。福原の近くには大輪田泊という古くからの大きな港がありました。平清盛は、海運交易を重視しており、福原の隣りの輪田(現在の神戸市兵庫区から長田区付近)に和田京を造営して遷都する計画でしたが断念しました。平地が足りずに大きな町は作れなかったためでしたが、代わりに福原に皇居を建てようと準備を始めます。ですが、源氏が反平家の活動を始め、天皇、上皇、法皇の一行は行幸の半年後に京都へ戻られました。
- 1337年 鎌倉時代の末期に朝廷が南朝、北朝にわかれ、都が京都と吉野の二つになります。京都には光明天皇(足利尊氏側)がたてた北朝・持明院統、吉野行宮(あんぐう)(現在の奈良県吉野郡)には後醍醐天皇がたてた南朝・大覚寺統ができ、南北朝時代が始まります。
吉野行宮は本格的な町を作ったものではなく、寺を仮の天皇の居所としたものでした。南北朝時代後半になると、南朝は戦況不利になり、吉野付近で行宮を転々と移しました。北朝の攻撃を吉野行宮で支えきれなくなり、1384年に吉野の西にある賀名生(あのう)に賀名生行宮に移ります。1373年には吉野へ行宮を戻しますが、1379年に吉野川沿いの英山寺に行宮を移し、その後にまた賀名生行宮に移ります。1392年に南朝の亀山天皇の後を北朝の後小松天皇に譲位して、一つの天皇に統合され、都は平安京だけになり、南北朝時代が終わりました。 - 1868年 (慶応4年=明治元年) 明治維新で江戸が東京に改称され、東京奠都 (てんと)により京都と東京の両方を都としました。遷都は前の都から新しい都へ移すことを言いますが、明治維新で行われたのは「奠都 (てんと)」であり、新しい都(東京)を京都の他に定めたものです。現在は行政機関が集中しているので首都は東京となり、東京に皇居がありますが、京都にも御所があります。令和の現在に至るまで東京へ遷都するとは宣言されていないので、明言もされていませんが理屈としては、今も京都と東京の両方が都ということになるはずです。