平安京洛外(一条大路から九条大路、東京極大路から西京極大路の外側)を詠った百人一首の歌、または平安京洛外に百人一首の歌人のゆかりの地のある歌とその場所を地図でご紹介しています。
百人一首の全和歌の歌番号順の一覧はこちらをご覧ください。
洛北 (平安京) の百人一首
洛北の下賀茂神社よりも北の場所の百人一首の歌についてご紹介しています。
歌番号、場所 | 【歌番号:32】 場所: 比叡山 |
和歌 | 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり |
作者名 生年没年 | 春道列樹
[はるみちのつらき] 生年不明 没年延喜20年(920年) |
作者について | 春道列樹は官人で歌人で、経歴が僅かに残っていますが詳しくはわかりません。醍醐天皇の頃の人です。 |
和歌の説明 | この歌は古今集に収められた歌で、春道列樹が比叡山のふもとを都から近江(滋賀県)へ抜けて行く山道で川に落ちた紅葉を詠んだと言われています。 山を流れる小川に散り敷いている紅葉を、風がかけた柵(しがらみ=川の中の流れを止める柵)に見立てています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 春道列樹が通った比叡山の山道をゆかりの地としました。如意岳の間の山道ではないかと言われています。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:95】 場所: 比叡山延暦寺 |
和歌 | おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつ杣に 墨染の袖 |
作者名 生年没年 | 前大僧正慈円
[さきのだいそうじょうじえん] 久寿2年~嘉禄元年 1155年~1225年 |
作者について | 前大僧正慈円は、関白、太政大臣であった藤原忠通(歌番号76)の六男で、関白・九条兼実の弟です。若くして出家して天台宗・比叡山延暦寺に入り、厳しい修行を重ね学識を深め、後に天台宗座主となりました。西行法師(歌番号86)とも交流がありました。 |
和歌の説明 | 千載集の歌で、慈円が僧として願い、志をもったことを詠った異色の和歌です。 平清盛亡き後の平氏が倶利伽羅峠の合戦に敗れ、平家一門が都を追われた後に木曽義仲が都に攻め入ってきました。 この頃、戦乱や疫病などで苦しむ民を見て、僧として仏法の力でこれを救おうと思い立った志を詠っています。 「わがたつ杣 」は、比叡山延暦寺のことです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 千載集の歌で、慈円が僧として願い、志をもったことを詠った異色の和歌です。 平清盛亡き後の平氏が倶利伽羅峠の合戦に敗れ、平家一門が都を追われた後に木曽義仲が都に攻め入ってきました。この頃、戦乱や疫病などで苦しむ民を見て、僧として仏法の力でこれを救おうと思い立った志を詠っています。 「わがたつ杣 」は、比叡山延暦寺のことです。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:39】 場所: 比叡山坂本・小野里 |
和歌 | 浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき |
作者名 生年没年 | 参議等 [さんぎひとし] (源等) 元慶4年~天暦5年 880年~951年 |
作者について | 参議等は源等のことで、中納言・源希の次子、嵯峨天皇のひ孫にあたる人物です。参河、丹波、山城守などの官職を歴任した後、従四位大宰大弐から慶九年(946年)に参議、天暦五年に正四位下参議となりました。 「後撰和歌集」に4首が伝えられています。 |
和歌の説明 | この和歌は、古今集の和歌を本歌取りした後撰集に収められた歌で、参議等が思いを寄せる女性のために、忍んできた心を忍びきれなくなった思いを詠ったと言われています。 浅茅生の小野の篠原は、丈の低いチガヤや、細い竹の低い竹の生えた野原を指します。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 源等はゆかりの地とできる場所があまりありません。そこで、小野は特定の場所でなく野原全般をさしますが、源氏物語の夕霧の歌「里遠み小野の篠原分けて来し我もしかこそ声も惜しまね」にでてくる小野里(比叡坂本)を、ゆかりの地の代りとさせて頂きました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:70】 場所: 大原 |
和歌 | さびしさに 宿をたち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮 |
作者名 生年没年 | 良選法師 [りょうぜんほうし] 生年没年不明。能因法師と同世代の人なので、凡そ980年頃~1060年頃の人と考えられます。 |
作者について | 良暹法師は能因法師(歌番号69)と同時代の歌僧ですが、詳しいことは伝わっていません。 良暹法師は各地を旅していたようですが、比叡山の僧侶で、祇園の別当を務めた後、晩年は大原に庵をむすびました。 |
和歌の説明 | この歌は後拾遺集に収められた歌で、宮中での歌合せのときにつくられたと言われています。あまりの寂しさに庵を出て見ると、どこも同じように寂しい秋の夕暮れだ、と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 良暹法師が晩年に移り住んだ大原をゆかりの地としています。 |
番号、場所 | 【歌番号:36】 場所: 補陀落寺 |
和歌 | 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ |
作者名 生年没年 | 清原深養父[きよはらのふかやぶ] 長冶元年~冶承元年 (西暦1104年~1177年) |
作者について | 清原深養父は、古今和歌集などの勅撰和歌集に入首している中古歌仙三十六人の一人です。 清原深養父は、清少納言(歌番号62)の曾祖父で、清原元輔(歌番号42)の祖父です。 紀貫之(歌番号35)、凡河内躬恒(歌番号29)、藤原兼輔(歌番号27)(紫式部の曾祖父)らと交流がありました。 |
和歌の説明 | 古今集の歌で、短い夏の夜にすぐに明けてしまったので、月はどこに隠れているのだろう、と月を擬人化して詠ったものです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 清原深養父は晩年に京都・北山(三千院と貴船神社の中間あたり)に補陀洛寺を建立しましたので、補陀洛寺をゆかりの地としました。この当時の陀洛寺は今は残っておらず、現在の補陀洛寺は延昌寺が名前を改めた寺で京都市左京区静市市原町にあります。 |
番号、場所 | 【歌番号:43】 場所: 藤原敦忠山荘(西坂本、現在の一乗寺) |
和歌 | 逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり |
作者名 生年没年 | 権中納言敦忠 [ごんちゅうなごんあつただ] (藤原敦忠) 延喜6年~天慶6年 (西暦906年~943年) |
作者について | 藤原敦忠(権中納言敦忠)は、公卿であり、藤原公任が選んだ三十六歌仙のひとりで、藤原時平の三男です。父・藤原時平は菅原道真を大宰府に追いやった人物と言われ、39歳で道真の祟りで亡くなったと言われました。敦忠も38歳で亡くなり、祟りが原因だとも、恋人の右近との誓いを破ったためとも噂されました。 |
和歌の説明 | 敦忠は右近(歌番号38)と愛し合っていましたが、この和歌は、その右近への思いを詠んだものとも言われています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 藤原敦忠の別荘は西坂本(現在の一乗寺)にあり、歌会が催されていましたので、その別荘をゆかりの地としました。荘跡の碑は一乗寺の曼殊院道にあります。 |
番号、場所 | 【歌番号:15】 場所: 北七野、櫟谷七野神社 |
和歌 | 君がため 春の野にいでて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ |
作者名 生年没年 | 光孝天皇 [こうこうてんのう] 天長7年~仁和3年 (西暦830年~887年) |
作者について | 光孝天皇は、仁明天皇の皇子で親王の任じられる官職についていましたが、陽成天皇が退位された時に藤原基経に推されて55歳で即位しました。「古事談」や「徒然草」に、光孝天皇の清貧な逸話が残されています。 藤原基経が関白と同様の職務に任じられて補佐しました。(関白の職務は、宇多天皇の時に正式に定めらたもので、この時は定められていませんでした) |
和歌の説明 | これは古今集の歌です。「若菜摘み」は邪気を払い、長寿、無病息災を願う春の行事です。古今集の詞書に「みこにおわしましける時に、人にわかな賜ひける御歌」とあるので、この和歌は即位前の和歌です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 若菜摘みの場所は不明ですので、京都の北の洛北七野(内野・北野・平野・上野・蓮台野、紫野)と想定して、七野の総社である櫟谷七野神社(現代の上京区社横町)をゆかりの地としました。七野の範囲は明確には定まっておらず洛北の広範囲な場所を指しています。 |
番号、場所 | 【歌番号:98】 場所: 上賀茂神社・御手洗川 |
和歌 | 風そよぐ ならの小川の 夕暮は みそぎぞ夏の しるしなりける |
作者名 生年没年 | 従二位家隆 [じゅうにいいえたか] (藤原家隆)
保元3年~嘉禎3年 (西暦1158~1237年 |
作者について | 従二位家隆は藤原家隆のことで、藤原北家利基流の家系で、藤原定家(歌番号97)と並び称される歌人です。定家の父・藤原俊成(歌番号83)に和歌を学びました。 藤原定家の「百人秀家」および「新勅撰集」では「正三位家隆」でしたが、嘉禎元年(1235年)に七十八才で従二位となりました。 |
和歌の説明 | 新勅撰集の歌で、後堀河天皇の中宮として九条(藤原)道家の娘が寛喜元年(1229年)に入内する時に屏風歌として送られたものです。 「みそぎ」は夏の行事で、旧暦6月30日 (現代の暦でいうと入内の年では7月28日)に行われます。 秋のような涼やかな風の吹く夕暮れでも、まだ夏なのだという様子を詠っています。 「ならの小川」は、上賀茂神社の前の御手洗川です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠われた上賀茂神社、御手洗川をゆかりの地としました。 |
番号、場所 | 【歌番号:89】 場所: 上加茂神社、下賀茂神社 |
和歌 | 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする |
作者名 生年没年 | 式子内親王 [しょくしないしんのう]
久安5年~建仁元年 (西暦1149年~1201年) |
作者について | 式子内親王は後白河天皇の皇女です。加茂斎院(上賀茂神社、下賀茂神社)に奉仕した皇女)を務めていました。 |
和歌の説明 | 斎院は生涯恋愛は許されませんでしたが、ひそかな思い人のことを思って詠まれたと言われています。新古今集に納められた歌です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 式子内親王が加茂斎院を務めていたので、上賀茂神社、下賀茂神社をゆかりの地としました。 |
洛東 (平安京)の百人一首
歌番号、場所 | 【歌番号:85】 場所: 平安京洛東・白川 ・歌林苑 |
和歌 | 夜もすがら 物思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり |
作者名 生年没年 | 俊恵法師 [しゅんえほうし] 永久元年~没年不明 (西暦1113年~没年不明) |
作者について | 俊恵法師は、源俊頼朝臣(歌番号74の作者)の子で、大納言経信(源経信)(歌番号71)の孫です。東大寺の僧侶でした。 自分の僧坊を歌林苑と名付けて歌合を開催し、道因法師(歌番号82)、藤原清助(歌番号84)、殷富門院大輔(歌番号90)らと招きました。 |
和歌の説明 | 千載集に収められた歌で、女性の立場で、物思いにふける夜の長さを感じつつ、寝屋の隙間さえつれなく感じられるという歌と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 俊恵法師の歌林苑は平安京の北東部・白川にありました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:56】 場所: 平安京洛東・東北院 |
和歌 | あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢ふこともがな |
作者名 生年没年 | 和泉式部
[いずみ しきぶ] 不明 980年頃~記録が残っているのは1020年代 |
作者について | 和泉式部は、女流歌人で、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の娘)に仕えました。和泉式部日記の作者であり、恋多き人でした。女房三十六歌仙のひとりです。 和泉守・橘道貞と結婚して娘・小式部内侍(歌番号56)をもうけました。冷泉天皇の子・為尊親王と恋に落ちて離婚しますが、為尊親王は早くに亡くなられます。 その弟敦道親王と恋しますが、敦道親王も若くして亡くなられます。その後、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の娘)に、紫式部(歌番号57)らと共に仕えます。藤原保昌と結婚し、娘・小式部内侍が生まれます。 |
和歌の説明 | この世の最期にあなたと逢いたいとう思いを詠った和歌で、後拾遺集に収められました。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 和泉式部が手植えした梅「軒端の梅」が、平安京東北側の東北院にあり、東北院をゆかりの地としました。 東北院には和泉式部の供養塔もあります。現在の京都市左京区浄土寺真如町にあたります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:76】 場所: 平安京洛東・法性寺 (現在の東福寺の場所) |
和歌 | わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波 |
作者名 生年没年 | 法性寺入道前関白太政大臣
(藤原忠通) 承徳元年~長寛2年 1097~1164年 |
作者について | 藤原忠通(法性寺入道前関白太政大臣)は、太政大臣、関白、摂政を歴任し、嫡子基実に関白を譲り出家しました。法名は円観です。詩歌・音楽・書に優れていました。 父忠通、弟頼道との関係は険悪で、保元の乱の公卿側での原因となりました。1156年の保元の乱では弟・頼道は崇徳上皇側につき、平清盛、源義朝を味方につけた後白河天皇、忠道側が勝利しました。 |
和歌の説明 | この和歌は崇徳上皇が天皇在位中の1135年の歌合で、「海上遠望」という題で詠われた詞花集選ばれた歌です。「わたの原」は海原(うなばら)のことです。 藤原忠通は、法性寺(ほっしょうじ)で出家したことから法性寺入道と呼ばれました。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | この歌は特定の海の場所を詠っているわけではありません。 藤原忠通は、法性寺(ほっしょうじ)で出家したことから法性寺入道と呼ばれましたので、法性寺をゆかりの地としました。 法性寺は、藤原忠通や藤原道長の祖先である藤原北家嫡流の藤原忠平(貞信公、歌番号26)が延長3年(925年)に建立した藤原氏の氏寺で、藤原忠道が新堂を久安3年(1147年)に建てました。法性寺は現在の京都市東山区本町にありましたが、兵火で焼失しました。 藤原(九条)道家が延応元年(1239年)に法性寺の境内であった場所に東福寺を建立し、かつての法性寺は今はありません。現在ある法性寺は、明治時代に再興された同名の別の寺です。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:62】 場所: 逢坂の関 |
和歌 | 夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢阪の 関はゆるさじ |
作者名 生年没年 | 清少納言 [(せいしょうなごん] 生年没年不明。推定では 康保3年頃~万寿2年頃 (西暦966年頃~1025年頃) |
作者について | 清少納言は、一条天皇の中宮・定子に仕えた女流歌人で枕草子の作者です。中古三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人です。中宮・定子の勅撰和歌集の撰者であった清原元輔(歌番号42)の娘であり、清原深養父(歌番号36)のひ孫にあたります。 |
和歌の説明 | 後拾遺集に収められた歌で、清少納言が藤原行成へ送った歌ですが、恋の歌ではありません。物語の朗読を楽しんでいたある晩に、藤原行成が途中で帰らなければならず、翌日行成が歌を送り、二人の既知に富んだ歌のやりとりがあって、贈った歌です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠まれた逢坂の関をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:10】 場所: 逢坂の関 |
和歌 | これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関 |
作者名 生年没年 | 蝉丸
[せみまる] 生年没年不明 (敦実親王に仕えていたとするならば、900年代前半頃活躍したと考えられます) |
作者について | 蝉丸の生涯に関しては様々な説があり、真実は不明です。その中の一つの説によれば、宇多天皇の皇子である敦実親王(907年親王宣下、950年出家)に仕えていたと言われています。盲目の歌人で、琵琶の名手という伝承もあります。 |
和歌の説明 | 後撰集の歌です。逢坂の関は、山城国(現代の京都)と近江国(現代の滋賀県)の大津の間にある主要街道の関所で、人が行きかう場所でした。そこに庵をおいて住んでいました。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠まれた逢坂の関をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:25】 場所: 逢坂山 |
和歌 | 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな |
作者名 生年没年 | 三条右大臣 [さんじょううだいじん] (藤原定方) 貞観15年~承平2年 (西暦 873年~932年) |
作者について | 藤原定方は、藤原北家勧修寺流の家系の公家で歌人です。山科に勧修寺を建立しました。延長2年(924年)に右大臣となり、屋敷が都の三条にあったため三条右大臣と呼ばれました。 |
和歌の説明 | この和歌は、後撰和歌集の歌で、詞書は「女につかはしける」です。 思い人との関係が公になったために会えなくなり、この歌を詠った伝えられています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠まれた逢坂山をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:77】 場所: 平安京洛東・祟徳天皇御廟 (現在は安井金刀比羅宮の北) |
和歌 | 瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ |
作者名 生年没年 | 崇徳院 [すとくいん] (崇徳天皇。崇徳院は院号) 元永2年~長寛2年 (西暦 1119~1164年) |
作者について | 崇徳院は、鳥羽天皇の皇子で、1123年に五才(満3歳)で崇徳天皇として即位しました。歌会を催し、藤原顕輔に詞花和歌集を撰集させました。 西行法師などとも親交がありました。鳥羽上皇に強いられて譲位して崇徳上皇となりました。保元の乱で後白河上皇と藤原忠通(歌番号76)側についた平清盛、源義朝に破れ、讃岐の国(現在の香川県)に配流されました。死後に崇徳上皇の怨霊をなだめるために崇徳院と院号が送られました。 |
和歌の説明 | 川の流れが岩によって左右に分かれるても一つになるように、分かれてもいつか会うのだ、という恋の思いを詠った歌と解されています。 保元の乱よりも前に詠まれた歌です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 崇徳天皇の怨霊を鎮めるために、後白河法皇が保元の乱の古戦場(鴨川の東、春日通末、春日河原)に粟田宮(あわたのみや)を建立しました。その後、廟は点々と移され、現在は安井金刀比羅宮の北に、祟徳天皇御廟があります。 |
洛西 (平安京)の百人一首
歌番号、場所 | 【歌番号:87】 場所: 嵯峨野 |
和歌 | 村雨の 露もまだひぬ 槇の葉に 霧たちのぼる 秋の夕ぐれ |
作者名 生年没年 | 寂蓮法師 [じゃくれんほうし] 保延5年頃~建仁2年 (西暦 1139年頃~1202年) |
作者について | 寂蓮法師の出家前の俗名は藤原定長です。藤原俊成(歌番号83)の養子となりました。 藤原俊成には和歌の才能がある息子がいなかった事も養子となった理由の一つと考えられていますが、その後に俊成の子・定家(歌番号97)が生まれました。 定長はその後に出家しましたが、出家の理由は和歌の才がある定家との跡目争いを避けるためと考えられています。寂蓮は優れた歌人で、新古今和歌集の撰者の一人です。 |
和歌の説明 | この歌は、後鳥羽院が催された歌合で詠まれたものですが、秋の風情を詠った新古今集に収められました。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 寂蓮は晩年は嵯峨に住んだと伝えられています。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:28】 場所: 嵯峨野 |
和歌 | 山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば |
作者名 生年没年 | 源宗于朝臣 [みなもとのむねゆきあそん] 生年不明 。没年天慶2年=939年。 寛平6年(894年)に臣籍降下し、源姓となりました。 |
作者について | 源宗于は、光孝天皇の皇子・是忠親王の子で、臣籍降下した公卿で歌人です。藤原公任が選んだ三十六歌仙の一人です。勅撰和歌集に多くの歌が選ばれています。 |
和歌の説明 | 古今集の歌で、冬の山里の人の訪れが絶え、草木が枯れてしまう静寂を詠ったものです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 「山里」は、この当時は嵯峨野(都の北西)や宇治山(都の東南)のふもとなどの貴族の別荘や、僧の修行場と考えられています。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:55】 場所: 大覚寺 |
和歌 | 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ |
作者名 生年没年 | 大納言公任 [だいなごんきんとう] (藤原公任) 慶保3年~長久2年 (西暦996年~1041年) |
作者について | 藤原公任は和歌、漢詩、管絃に秀でており「三舟の才」として知られていました。三十六歌仙を表したことでも知られる歌人でした。当時の実力者、藤原道長に近づき、当時の代表的歌人となり大納言にまで昇進しました。 |
和歌の説明 | これは千載集の歌です。藤原公任と藤原行成が、藤原道長に同行して嵯峨大覚寺に遊び行った時に名超曽(なこそ)滝跡で詠んだと、藤原行成の日記「権記」に記されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 大覚寺は嵯峨天皇の離宮でしたが、滝はこの歌が詠まれるだいぶ前に涸れてしまっていましたが、その名声は伝えられていました。滝を自分に重ねて名声を残したいと願ったものと解されます。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:26】 場所: 小倉山 |
和歌 | 小倉山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ |
作者名 生年没年 | 貞信公 [ていしんこう] (藤原忠平) 元慶4年~天暦3年 (西暦 880年~949年) |
作者について | 藤原忠平(貞信公)は、藤原北家嫡流の関白・藤原基経の子です。醍醐天皇の御代では左藤原忠平が大臣となり、藤原定方(歌番号26)が右大臣となり、後に関白となりました。死去後に貞信公と諡されました。 藤原忠平の日記『貞信公記』が残されています。 |
和歌の説明 | 宇多上皇が御幸先の小倉山の紅葉の見事さを息子である醍醐天皇にも見せたい(行幸させてやりたい)と言われたお気持ちを代弁して、忠平がとっさに歌にしたものです。拾遺集に収められた歌です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 小倉山 は京都・嵯峨にある紅葉の名所です。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:71】 場所: 嵐山・大堰川(おおいがわ) |
和歌 | 夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く |
作者名 生年没年 | 大納言経信 [だいなごんつねのぶ] (源経信) 長和5年~承徳元年 (西暦1016~1097年) |
作者について | 源経信(大納言経信)は民部卿 道方の六男で、蔵人頭、参議をへて正二位大納言に任ぜられています。 歌人としても有名でしたが、管弦も巧みで、藤原公任と同様に「三船の才」と言われました。 |
和歌の説明 | 源師賢の歌会で「田家ノ秋風」という題で詠われ、金葉集に収められた歌です。秋の夕がたに田を風が渡り稲の葉をゆらしながら、葦葺きの仮小屋にも吹いてくる様子を詠っています。 白河天皇が大堰川(おおいがわ)に行幸されて歌の船、漢詩の船、管弦の船を用意して、それぞれの名人が乗りました。船が出てしまった後に経信が遅刻して来て、全てに自信がある経信は「どの船でもよいので岸に寄せてください」と言ったそうです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌を詠った時の逸話から大堰川をゆかりの地としました。 大堰川は嵐山・渡月橋付近での呼び名で、場所によって桂川、保津川とも呼ばれます。 |
洛南 (平安京)の百人一首
平安京の洛南および南方向の百人一首です。石清水八幡は貞観元年(西暦859)年にご宣託を受けて創建されたので、800年代前半まではありませんでした。
歌番号、場所 | 【歌番号:99】 場所: 鳥羽離宮 |
和歌 | 人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は |
作者名 生年没年 | 後鳥羽院 [ごとばいん] (後鳥羽上皇、後鳥羽院は院号) 冶承4年~延応元年 1180年~1239年 |
作者について | 後鳥羽天皇は、平家が滅亡した壇ノ浦合戦で入水した安徳天皇のあとに即位しました。土御門天皇に譲位した後に後鳥羽上皇として院政をしきました。文武両道に秀でており、新古今集を藤原定家らに編纂させました。鎌倉幕府と対立し、承久の乱(承久3年、1221年)で執権北条義時討伐に失敗して隠岐島に配流されました。隠岐島で延応元年(1239年)に崩御された後に、仁治3年(1242年)に「後鳥羽院」と諡されました。 |
和歌の説明 | この和歌は、後鳥羽上皇が建暦2年(1212年)に開催した五人百首の歌会で詠われたもので、隠岐島への配流後の歌ではありません。 後鳥羽上皇の命で藤原定家らが編纂した新古今和歌集には、後鳥羽上皇の歌が36首選ばれましたが、この歌は選ばれていません。藤原定家の没後に、後鳥羽院の孫である後嵯峨天皇の命で編纂された「続後撰集」巻十七には「巻軸」(巻物の終わり)の歌として収められています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | この歌を詠われた時の御在所は、院御所である 鳥羽離宮でしたので、鳥羽離宮をゆかりの地としました。鳥羽離宮は洛南の鴨川と桂川の間の池や沼の多い景勝地に白河天皇が作られ、代々院御所として使われました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:86】 場所: 勝持寺 |
和歌 | 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな |
作者名 生年没年 | 西行法師 [さいぎょうほうし] 元永元年~文冶6年 (西暦1118~1190年) |
作者について | 西行法師は、藤原俊成とならぶ歌人で、出家前の俗名は佐藤 義清です。藤原北家魚名流から分かれた佐藤家の4代目で、出家前は藤原北家閑院流の公家、徳大寺家に出仕し、鳥羽院の警護のための北面の武士を勤めました。 結婚して子供も生まれましたが、保延6年(1140年)10月、23才で出家して西行法師となりました。出家の理由は不明です。 |
和歌の説明 | 千載集に収められた「月前恋」の台で詠まれた和歌です。月が物思いをさせるのか、いや月のせいにして、涙がこぼれ落ちることよ、と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 西行が植えた西行桜など沢山の桜のある「勝持寺」は花の寺と呼ばれ、西行が出家の際に庵を結んだ寺です。西行のゆかりの地は多くありますが、この地をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:38】 場所: 醍醐寺 |
和歌 | 忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな |
作者名 生年没年 | 右近
[うこん] 生年没年不明。 参加した歌合として960年、962年、966年の記録が残され、村上天皇の頃に歌人として活躍しました。 |
作者について | 右近は平安時代の中頃の女流歌人で、鷹狩りの名手であった右近衛少将・藤原季蝿の娘です。父の官職の名から右近とよばれ、醍醐天皇の后・穏子に仕えていました。 また、「大和物語」には、藤原敦忠、藤原師輔、藤原朝忠、源順(みなもとのしたごう)などとの恋愛が描かれて、恋多き女性だったと伝えられています。 |
和歌の説明 | 拾遺集の歌です。 右近は藤原敦忠(歌番号43)と恋人どうしでしたが、敦忠が他の女性に心を動かしているという噂を耳にしたときに、この和歌を詠んだと言われています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 藤原敦忠が若くして亡くなったのは、右近との誓いを破ったためとも噂されました。 右近が仕えた醍醐天皇の中宮・穏子が醍醐天皇と共に帰依した醍醐寺をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:9】 場所: 随心院 |
和歌 | 花の色は 移りにけりな いたづらに 我身世にふる ながめせしまに |
作者名 生年没年 | 小野小町
[おののこまち] 生年没年不明 (800年代に活躍した女流歌人です) |
作者について | 小野小町は、生涯が不明な美女として伝えられています。小野篁(歌番号11)の孫という説もありますが、それも疑わしい点が多くあり謎のままです。 三十六歌仙の一人であり、紀貫之が選んだ六歌仙の一人です。 文徳、清和天皇の頃、女官として宮廷に仕えていたなど、様々な伝説があります。文屋康秀(歌番号22)との贈答歌のやりとりが残されています。 能で創作された深草少将の百夜通いの物語なども有名です。在原業平に思いを寄せていたとも言われ、色々な伝説が伝わっています。 |
和歌の説明 | 古今集の歌で、花の色があせていく様子と、わが身を重ねた歌です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 小野小町の住まいがあったとされる場所は色々あり、補陀落寺や、故郷の出羽福富(現在の秋田県湯沢市小野)をはじめとして、晩年に住み亡くなったとされる場所も幾つもあります。 それらの一つではありますが、京都・山科にも住まいがあったとされ、山科の随心院に史跡がありますので、ここをゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:64】 場所: 宇治川 |
和歌 | 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 |
作者名 生年没年 | 権中納言定頼 [ごんちゅうなごんさだより] (藤原定頼) 長徳元年~寛徳2年 (西暦 995~1045年) |
作者について | 藤原定頼(権中納言定頼)は、公家であり、歌人、書家でした。藤原公任(歌番号55)の子で、藤原基俊(歌番号75)の父です。 父・公任は四条大納言と呼ばれ、定頼は中納言にまで昇ったので四条中納言とも呼ばれました。 |
和歌の説明 | この歌は後拾遺集の歌です。 宇治川は都の南で、網代は魚を獲るための仕掛けで、冬には多くの網代がつくられたと言われています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠まれた宇治川をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:8】 場所: 宇治川 |
和歌 | わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり |
作者名 生年没年 | 喜撰法師
[きせんほうし] 生年没年不明 (905年に成立した古今集に和歌が選ばれているので、800年代頃に活躍したと考えられます) |
作者について | 喜撰法師は、六歌仙の一人です。出家後に宇治山に隠棲した僧でありますが、その生涯は諸説があり、事実は不明です。 |
和歌の説明 | 古今和歌集・巻十八・雑下の歌で、 詞書には「題知らず」となっています。 「都のたつみ」は平安京の東南方向です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 宇治山は現在の喜撰山です。喜撰法師の名が山の名前となったそうです。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:5】 場所: 猿丸神社 |
和歌 | 奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき |
作者名 生年没年 | 猿丸大夫 [さるまるだゆう] 生年没年不明 。 905年に成立した古今集に和歌が選ばれており、古今集真名序からすると奈良時代または平安時代初期の歌人と考えられています。 |
作者について | 猿丸大夫の生涯は不明で、実在したかすら不明とも言われていますが、藤原公任の選んだ三十六歌仙の一人です。 |
和歌の説明 | 905年に成立した古今和歌集・巻四の歌で、 詞書には「是貞親王家の歌合せ」とあり、詠み人しらずとなっていますが、藤原公任の「三十六人撰」で猿丸大夫の歌とされたものと考えられています。奥山がどこかは不明ですが、もしかしたら猿丸太夫の墓があったという場所あたりで、この歌を詠ったのかもしれません。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 山城国綴喜郡「曾束荘」(現代の滋賀県大津市大石曽束町)に猿丸大夫の墓があったとされていますが、猿丸大夫を歌道の神として祀った猿丸神社が綴喜郡に創建されました。(現在の住所は京都府綴喜郡宇治田原町になります。) この猿丸神社をゆかりの地としました。 |