江戸幕府の命で天保9年(1839年)に制作された「下総国高都合併郡色分目録」を基に、下総国の西北部(現在の千葉県西部)の野馬の管理地であった「小金牧」を中心とした地図です。
小金牧はさらに高田牧、上野牧、中野牧、下野牧、印西牧に分かれています。江戸初期には現在の野田市のあたりに庄内牧がありましたが、寛文期と享保の改革で廃止となりました。

下総国小金牧天保図

江戸幕府が馬を調達するために、下総国の広範囲に野馬を放牧管理する「牧」を作成しました。下総国の西側が「小金牧」、東側が「佐倉牧」と呼ばれ、この地図は小金牧周辺の地図です。地図に記載した牧に関連した名称について説明します。
・「野馬土手」 農民からすると馬が田畑や村に入ってこないように作った土手のことで、幕府からすると馬が逃げないようにするための土手です。
・「捕込(とりごめ)」 年に1度馬を追い込んで捕獲するための場所です。
・「水吞場(みずのみば)」 馬の水吞場です。
・「木戸」 野間土手から人間が出入りし、かつ馬はそこから逃げないないようにもうけた木戸です。江戸の町ごとの防犯用の木戸とは異なります。

この地図は、元禄期の下総国の地図を書いていた時に青木更吉氏の書かれた「小金牧野間土手は泣いている」に出会い、千葉県の自分の周辺にも野間土手が沢山あって、その後が今もわずかに残っていることを知りました。青木氏の野間土手を守りたいという情熱にひかれて、青木氏の本やその他千葉県内の各市の図書館や郷土資料館などの資料を参照して地図を作成しています。

江戸時代の地図は当然ながら大雑把な手描きの絵があるばかりで、当時の資料の野間土手の位置や範囲は正確ではなく、現在まで残っている野間土手はほんのわずかです。土手や牧の範囲は、青木更吉氏が歩いて地元の方に聞いてまわって本に書かれた情報や、千葉県や各市の調査結果を参考にさせて頂いています。地形(崖、高い丘や馬があまり入らない湿地帯)などを参考に筆者の推測で補足している部分があり、そこは大まかな目安程度のものとしてとらえてください。

小金牧は、江戸時代の間にも年貢増収のため寛文、延宝、享保、寛政、天保期に徐々に開墾されました。幕末の小金牧は、面積にして江戸初期の約4割にまで縮小しています。そのため、牧の範囲は年代によって異なるので以下の複数の時期の牧の範囲を記載しています。
 ・江戸初期 (寛文12年=1672年)
 ・江戸中期、享保の改革前 (享保7年=1772年)
 ・江戸幕末 (天保9年=~文久2年=1862年)
天保9年の牧の範囲は、それ以降大きな開墾が無くなったため、23年後の幕末の文久2年(1862年)とほぼ同じと考えられます。

地図について

・天保年間の地図を、現代の測量された地図上に地名を基準にして当てはめ、地形を見ながら位置を補正して作成しています。
・利根川、鬼怒川、手賀沼は、天保時代以降現代に至るまでの治水工事によって、当時と現在では形がだいぶ変わっています。天保時代の絵図や治水工事の記録からできるだけ当時の形を復元しています。
・地名は、天保9年の地図に記載された村と町を当時の地図の名称を現代漢字に直して記載しています。
・神社仏閣の名前は、明治の神仏分離に伴う名称変更前の天保期の名前で記載しています。「神社」という呼び方は明治時代につけられたもので、それ以前は「XX明神」「XX権現」「天王社」などと呼ばれていましたが、神仏分離令で強制改名されています。この天保年間の地図は、当時の呼び方で記載していますので現在とは異なる場合があります。

【お詫び】
下総国元禄図の地図を作成してから、天保年間の地形を補正して、野間土手や牧の情報を追加し、天保年間までに増えた村を追加して天保期の地図を作成しています。
すみませんが、まだ元禄から天保までの間に開墾された村を追加しきれておらず、天保年間の「下総国高都合併郡色分目録」の地図にあって、この地図にない村の名前がまだあります。これは地図を順次更新予定です。

参考資料

・「下総国高都合併郡色分目録」天保16年 : 天保年間の地図は国の重要文化財となっており、国立公文書館デジタルアーカイブで見ることができます。
・「小金牧野間土手は泣いている」青木更吉著 崙書房出版 : 野間土手について書かれた青木氏の力作です。絶版のため図書館でご覧になってください。
・「小金牧を歩く」青木幸吉著 崙書房出版  崙書房出版
・「下総大地における牧景観の特徴とその変容過程」宮本万里子
・「小金牧周辺野絵図」(寛文12年=1672年)
・ 鎌ヶ谷市、松戸市、流山市、船橋市、白井市、印西市の野馬土手の資料

・「第一軍管地方二万分一迅速測量原図」(1880~1881年)
・ 明治陸軍5万分一地図 (1903~1909年)