江戸幕府 六十九国全図

日本全国の幕末・文久2年(1862年)の国の北は蝦夷、南は琉球に至る全69の国の「全国図」です。この次の「藩全図」と共に、江戸幕府の幕藩体制の様子を示しています。この数年後にせまる明治維新による幕藩体制崩壊寸前の様子です。現在の県をあわせて載せています。

江戸幕府  全国図
江戸幕府 全国図

江戸幕府 三百藩全図

以下は文久2年(1862年)元日時点の江戸幕府の全国の69国の約三百藩と藩主名、城の地図です。現在の県をあわせて載せています。

江戸幕府 全藩図
江戸幕府 全藩図

「拡大図」で表示を縮小していると国だけを表示し、拡大していくと段階的に5万石以上の大名、更に拡大すると1万石以上の小名全てと大名の家名、城名を表示します。

藩は石高によって文字サイズと文字の色、フォントを変えて示しています。加賀藩のような百万国の大藩は大きく赤紫で、10万大きな藩は中くらいの青い文字で、1万石程度の藩は緑で小さくといったように、文字サイズ、色分け、フォント分けをして、藩の石高を9段階に分けて描いています。

この地図の藩名、藩主名、石高は文久2年元日を基準にしています。この年1月15日に起きた坂下門外の変により、磐城平藩は8月に所領が減らせれて5万石以下になったため、元旦時点を基準としています。国の境界、城の名前は幕府の命で天保9年(1838年)に制作された天保国絵図に基づいて記載し、文久2年までに廃城、築城されていないことを確認しています。現在の県境と異なる国境や、陸奥国、出羽国、越後国が複数の領に分かれている境界は、天保国絵図の境付近の村、山、峠、川の名前を現代の地図上で位置補正して境界を描いています。

【飛鳥時代から戦国時代までの国】
江戸幕末には、蝦夷、対馬国、隠岐国、淡路国、琉球王国を含む上図の69の国と三百弱の藩がありました。「国」は飛鳥時代の律令制によって定められた地方行政区分で、各国に国府が置かれていました。国の区分は時代によって変わっていき、特に関東、東北は、全てまとめて「蝦夷(えみし、えぞ)」だったのが細分されていきました。戦国時代になると苛烈な領土争いの中で、国や国府は事実上消滅しました。

【江戸時代の国】
江戸時代には「国」の単位で地方を管理はされませんでしたが、名称だけは引き継がれています。江戸幕府開府時点では国の数は68でしたが、薩摩藩、島津氏が琉球王国を実質支配下においたことで江戸幕府から見ると69国となりました。

陸奥国、出羽国、越後国はそれぞれ1国として管理するには大きすぎるので実際はより細かい「領」の単位で扱われていました。天保9年(1838年)に幕府が制作させた各国の村単位の石高を記した地図「天保国絵図」、石高だけを記した「江戸郷帳」では以下のように分割しています。冒頭の地図の各領の境界は天保国絵図の境界を現代地図に補正して記載しています。

・陸奥国(11領、7枚の絵図に分割): 津軽領、南部領、仙台領、福島領、会津領、二本松領、三春領、白河領、相馬領、磐城領、棚倉領
・出羽国(5領、5枚の絵図に分割): 秋田領、庄内領、新庄領、山形領、米沢領
・越後国(4領、3枚の絵図に分割): 高田領、長岡領、新発田(しばた)村上領

参照: 「天保国絵図」は国立公文書館デジタルアーカイブ でご覧になれます。

【明治時代の国】
明治元年になると版籍奉還によって「陸奥国」が奥州五国(陸奥、陸中、陸前、磐城、岩代)に分かれ、「出羽国」は羽前、羽後に分かれ、74国になりました。明治4年(1871年)の廃藩置県によって「国」という地方区分は無くなり、行政の単位が藩から県に変わりました。

【大名】
江戸時代は三百弱の藩がありました。大名の条件は禄高1万石以上の領地を持つ者で、元和元年(1615年)の武家諸法度では、5万石以上を大名、5万石未満を小名としました。大藩で一国を支配する大名を「国持(くにもち)大名」、戦国時代以来城を持っている大名を「城持(しろもち)大名」、陣屋(じんや)と呼ぶ城の無い大名の居所を構える大名がいました。
( ちなみに「藩」という呼び方は江戸時代から使われていますが、制度上明文化、定義されたのは明治初期で、廃藩置県令が出るまでの数年間正式名称として使われました。)

【藩と大名】
原則としては石高1万石以上の領地を保有する大名が「藩」を持ちますが、様々な状況を勘案した例外が多数あり、かなり複雑です。

家督相続や支配強化のための兄弟、庶子などの分家、有力家臣の所領などを藩とする場合があります。そうした分家の藩、支藩(しはん)は、新しく開発した1万国以上の新田を領地として与えられる場合もありましたが、本藩と支藩、新田藩を合計して1万石以上とする場合もありました。

また逆に禄高1万石未満であっても大名格が与えられることもありました。例えば蝦夷(北海道)を領有した松前藩は、当初一万石未満でしたが大名格として扱われ、後に1万石となり正式な大名となりました。備中(岡山県)成羽藩は、有力旗本の山崎家が交代寄合表向御礼衆の役割を持ち、禄高一万石以下でしたが大名格として扱われ成羽藩を有していました。

1万石未満の武士は旗本で、旗本も領地を持つ者と特定の領地を持たずに定められた禄高を与えられる者とがありました。
旗本の中で、禄高三千国以上で御役目が無い者を「寄合」と呼び、若年寄支配にあって複数人の「寄合肝煎」が各組に分けて監督しました。

【国と藩の関係】
国と藩の関係も色々な場合があり、一国に複数の藩がある場合と、一つの藩が複数の国にまたがって領有することもありました。例えば毛利家の長州藩(萩藩)は関ヶ原合戦で安芸国を召し上げられましたが、その後も幕末まで長門国と周防国の二国を領有していました。一つの国に一つの藩だけがある場合でも、国の中に幕府天領や旗本の領地が割り当てられている地域がある場合が多くありました。農民からすると、村の年貢の収め先の殿様(藩主、旗本)が複数いて、何年かごとに殿様が変わるということもありました。

【藩名】
藩の名前は全国で見ると以下の表のように重複があるので、区別のためには藩名の前に国名をつける必要がありました。(一つの藩が複数の国を領有している場合を除きます。)
「金沢藩」は加賀 金沢藩(現在の富山県金沢市)と、武蔵金沢藩(六浦藩)(現在の神奈川横浜市金沢区)の二か所にありましたが、加賀金沢藩は明治初期の一時的な名前で、江戸時代の名称は加賀藩でした。
また、三百弱もの藩があると47都道府県の場所を覚えるのよりも数倍難しいので、国名をつけて「尾張 犬山藩」「越前 鞠山(まりやま)藩」などと言われた方が、大まかな場所をイメージしやすかったことでしょう。

勝山藩: 安房、越前、美作亀山藩: 伊勢、丹波
田辺藩: 紀伊、丹後松山藩: 伊予、備中、出羽
吉井藩: 三河、伊予
江戸時代に複数の国にあった同じ藩名

【各藩の場所、範囲の変動】
江戸幕府の藩の数はだいたい三百藩とされていますが、藩の数、各藩の藩主、場所、領地の範囲は全国規模でみると、多くの変動がありました。江戸幕府によって、大名の転封(てんぷう)(領地替え)や、加増(領地の追加)、減封(領地を減らす)、改易(藩の取り潰し)、が時に行われました。この地図に記載した文久2年(1862年)は、藩の数は292 (新田藩、支藩の中の名目的な藩の数え方によって若干変動あり)でした。

江戸初期は大名統制、有力大名の力を削ぐために転封、取り潰しが多数ありましたが、幕府が安定してくるとそうした変更は減っていきましたが、なくなりはしていません。例えば陸奥磐城平藩は、この地図の文久2年(1862年)に起きた坂下門外の変で6万7千石から4万石に減封されています。陸奥(福島県)白河藩は、3年後の慶應2年(1866年)に11万石から7万石へ減封され、4年後の慶應2年(1866年)には白河藩は領主のいない二本松藩の預かり地になりました。

【明治時代の藩】
明治時代に入り、明治4年(1871年)の廃藩置県令が出るまでの短期間は藩が残っていましたが、明治維新の動乱で取り潰された藩や、転封などで一時的に新しい藩も設置されました。廃藩置県によって三百弱あった藩は消滅して、藩の統合分割、飛び地の整理、その他の境界調整を経て、47都道府県に変わりました。一回の変更で廃藩置県が完了したわけではなく、大きな府県統合が2回、その後も段階的に境界調整が続き、明治19年(1886年)に現代の都道府県の形になりました。
明治維新の動乱中に作られて数年間で消滅した藩が最も多かったのは千葉県で、以下の短命の7藩が存在しました。
・上総国: 菊間藩、小久保藩、桜井藩、鶴舞藩、松尾藩
・安房国: 長尾藩、花房藩

【江戸時代の城】
戦国時代は日本全国に無数の城がありましたが、大阪夏の陣の後に徳川家康が「一国一城令」を出しました。大名の軍事力を制限するために一つの国に一つの城だけを残して他の城は廃城させたものですが、この原則は多数の例外があり、後から幕府が追加での築城を認めることもありました。つまり、城は幕府が認めれば持てますが、認めなければ廃城すべきであり築城も補修もできませんでした。古くからあった天守閣を壊した後の城跡の陣屋などは、その地域では通称として城と呼び習わしている場合がありますが、正式な「城」は幕府が公式に認めたものだけでした。

【藩全図の城の記載について】
復元した「江戸幕府 藩全図」では、天保9年(1838年)に幕府の命令で制作された各国の天保国絵図上の「城」だけを城としてを記載し、文久2年(1862年)時点でも存続していることを確認しています。

地図が煩雑になりすぎないように、城のマーク 城アイコン を藩名の脇に描き、藩名と同じ城の名前は省略しました。藩の名前と城の名前が異なる場合だけ城の名前を記載しています。(例えば、広島藩の城「広島城」は藩名と同じなので城名を省略し、加賀藩の城「金沢城」は藩名と異なるので城の名前を記載しています。)

城の名称は天保国絵図上の名前を現代文字に直して記載しています。(例えば土佐藩(現・高知県)の高知城は、時代とともに河中山城→高智山城→高知山城→高知城と名前が変わっていますが、天保国絵図の通り「高知山城」と記載しています。)

参考文献

大江戸復元図鑑(武士編)  笹間良彦著  遊子館
戦国乱世から太平の世へ―シリーズ日本近世史〈1〉  藤井譲治著  岩波新書
「天保国絵図」 国立公文書館デジタルアーカイブ