百人一首の歌で、平安京の宮殿「平安宮」の中の光景や場所を詠った歌、平安宮の中で詠われた歌と作者をご紹介します。
平安宮は、平安京の一番北側、東西の中央にありました。平安京全体は東西約4.5km、南北約5.2kmありました。下記の図のピンク色の範囲が宮殿である平安宮で、東西約1.1km、南北約1.4kmの大きさがありました。
桓武天皇が平安京へ遷都したのは西暦794年で、平安時代当初は朱雀大路 (現在の千本通)が平安京の東西の中心の道でした。平安宮の中に天皇の御在所である内裏(だいり)や、朝廷の行政官庁などがあります。
鬼や怨霊が信じられていた時代ですので、平安宮の宮殿の宴松原では「女が鬼に喰われた」という噂が出ました。寛和元年五月(西暦978年6月)の闇夜に、花山天皇が藤原家隆、道兼、道長の三兄弟に肝試しをさせて、道長だけは肝試しをやりとげた、という話は大鏡に書かれた有名な逸話です。
平安宮の中では沢山のドラマが繰り広げられ、多くの和歌や漢詩が作られ、やがて日記や物語が多く書かれるようになりました。
参考資料
上記の「平安宮の百人一首図」は、「平安京跡データベース」の平安京復元地図を参照して制作しています。
原典:平安京跡データベース
制作:立命館大学アート・リサーチセンター/立命館大学歴史都市防災研究所
https://heiankyoexcavationdb-rstgis.hub.arcgis.com/
図内の緑色の( )内の文字 (千本通) (二条城)(丸太町通) は現在の地名を表しています。
平安宮の百人一首
図内の緑色の( )内の文字 (千本通) (二条城)(丸太町通) は現在の地名を表しています。
参考資料
上記の「平安宮の百人一首図」は、「平安京の百人一首地図、平安宮の範囲図」と同じく、「平安京跡データベース」の平安京復元地図を参照して制作しています。
歌番号、場所 | 【歌番号:68】 場所: 平安宮・内裏 |
和歌 | 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな |
作者名 生年没年 | 三条院 [さんじょういん] 貞元元年~寛仁元年 (西暦976~1017年) |
作者について | 三条院は、三条天皇が譲位された後の追号です。冷泉天皇の皇子であり、一条天皇崩御の直前に譲位され即位されました。 藤原妍子(藤原道長の次女)以外に藤原娍子が入内し二后の状態になり、自分のまつりごとを進めようとして藤原道長と対立します。やがて眼病で視力を失い、藤原道長に譲位の圧力をかけられて(道長の孫にあたる)後一条天皇に譲位されました。 |
和歌の説明 | 三条天皇が譲位する際に詠んだ歌で、後拾遺集に収められています。 皇位を追われた絶望、将来への絶望の気持ちを、眼病で徐々に見えなくなっていく月を見ながら、人生を嘆いた歌と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | この歌が詠われた平安宮・内裏をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:100】 場所: 平安宮・内裏 |
和歌 | ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり |
作者名 生年没年 | 順徳院 [じゅんとくいん] (順徳天皇、順徳院は院号) 建久8年~仁冶3年 (西暦 1197年~1242年) |
作者について | 順徳院は後鳥羽天皇の皇子で、土御門天皇から譲位されて承元4年(1210年)に順徳天皇に即位しました。承久の乱(承久3年、1221年)の2ヶ月前に仲恭天皇に譲位して上皇となられました。承久の乱で、後鳥羽上皇と共に命じた幕府討伐に失敗して、佐渡へ配流されました。佐渡で仁治3年(1242年)に崩御され、建長元年(1249年)に順徳院と諡されました。 |
和歌の説明 | 後嵯峨天皇(後鳥羽院の孫)の命で編纂された「続後撰集」巻十八に収められた歌です。 順徳天皇が即位された頃の時期に、宮中の古い建物を見て、昔を懐かしみ世の栄華の移ろいを詠まれたのがこの歌です。ももしき (百敷)は御所(内裏)のことです。 この歌は承久の乱で佐渡への配流された後の歌ではなく、そのずっと前に詠われたものです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | この歌が詠われた平安宮・内裏をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:67】 場所: 平安宮・内裏 |
和歌 | 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ |
作者名 生年没年 | 周防内侍 [すおうのないし] (周防仲子) 生年物年不明。 周防内侍 が仕えた天皇の在位期間は1045~1107年で、1090年代から1100年最初の歌合で活躍しましたので、1039頃~1109頃の生涯と考えられます。 |
作者について | 周防仲子(周防内侍) は、後冷泉天皇、後三条天皇、白河天皇、堀河天王に仕えた女流歌人です。父は周防守であった平棟仲、母は小馬内侍(こまのないし)です。 |
和歌の説明 | 春の夜の御所で、周防内侍が他の女房達と語らっていた時に「枕があれば良いのに」とつぶやいた所、御簾の外にいた藤原忠家(藤原道長の孫、藤原定家の曾祖父)が「この腕を枕にどうぞ」と差し出しました。それを、和歌でやんわり断ったのがこの歌です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 平安京の内裏をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:40】 場所: 平安宮・内裏 |
和歌 | 忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで |
作者名 生年没年 | 平兼盛 [たいらのかねもり] 生年不明 、没年は永祚2年頃 (西暦990年頃) |
作者について | 平兼盛は藤原公任が選んだ三十六歌仙のひとりで、「後撰和歌集」より以降の勅撰和歌集に90首程の和歌が伝えられています。 光孝天皇のひ孫である篤行王の三男で兼盛王と呼ばれましたが、臣籍降下して平姓となりました。ただし、系図には諸説があります。従五位上の官位で地方官の官職についていました。 |
和歌の説明 | 拾遺集に収録された、村上天皇の内裏で行われた天徳歌合で「忍ぶ恋」を題目として、壬生忠見と競って詠われた歌です。密めていた恋心が顔色に出てしまい、人に尋ねられるほどになってしまった、という歌です。この天徳歌合では壬生忠見(歌番号41)と競いましたが優劣がつかず、結局平兼盛の勝ちとされました。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 村上天皇の内裏で詠われた歌なので、内裏をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:41】 場所: 平安宮・内裏 |
和歌 | 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか |
作者名 生年没年 | 壬生忠見
[みぶのただみ] 生年没年不明。 954年、958年の官職叙任の記録があり、950年、960年の歌合に参加していますので、900年代後半に活躍した歌人です。 |
作者について | 壬生忠見は、三十六歌仙のひとりで、古今集の撰者のひとりです。家が貧しかったものの幼少の頃から和歌の才能が知られていました。乗り物が無く、竹馬で参内したいう逸話が残されています。任官の詳細な記録は残されていませんが、官職からすると官位が低い官人であったようです。壬生忠岑(百人一首30番)は、壬生忠見の父です。 |
和歌の説明 | 拾遺集に収録された、村上天皇の内裏で行われた天徳歌合で「忍ぶ恋」を題目として、平兼盛と競って詠われた歌です。恋をしているという私の噂がたってしまった。知られないように密かに思い始めたばかりなのに、という歌です。 歌合の約百年後に藤原清輔(歌番号84)が書いた「袋草紙」には、この歌合以降の壬生忠見の晩年の歌が残されています。歌合の約三百年後に書かれた「沙石集」という仏法説話集には、壬生忠見が歌合の勝負に負けてから食欲がなくなり亡くなってしまったと書かれていますが、創作の疑いが濃厚です。そうした話が残るほど負けて本当に悔しかったのではあろうとは思われます。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 村上天皇の内裏で詠われた歌なので、内裏をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:49】 場所: 平安宮・内裏 |
和歌 | みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ 物をこそ思へ |
作者名 生年没年 | 大中臣能宣朝臣 [おおなかとみのよしのぶあそん] 延喜21年~正暦2年 (西暦921~991年) |
作者について | 大中臣能宣は、藤原氏の遠縁の大中臣氏の一族です。(中臣鎌足、藤原不比等を祖とする中臣氏が、中臣清麻呂の時に大中臣の姓を賜りました。) 藤原公任が選んだ三十六歌仙の一人です。 伊勢大輔(歌番号61)は能宣の孫にあたっています。 |
和歌の説明 | 詩歌集の歌です。禁中の御垣・諸門を守る衛士のかがり火が、夜は燃え昼は消える様子を、自分の恋心のようだと詠っていると解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 平安京の禁中(内裏)の門のかがり火を見て詠った歌ですので、内裏をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:12】 場所: 平安宮・内裏 |
和歌 | 天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ |
作者名 生年没年 | 僧正遍昭 [そうじょうへんじょう] (俗名は良岑宗貞) 弘仁7年~寛平2年 (西暦 816年~890年) |
作者について | 僧正遍昭は、出家前の名は良岑宗貞という名で蔵人頭まで昇進しましたが、仁明天皇の崩御で出家しました。桓武天皇の孫ですが、父・良岑安世が臣籍降下しました。三十六歌仙の一人であり、紀貫之が選んだ六歌仙の一人です。 素性法師(歌番号21)は、僧正遍昭の子です。 |
和歌の説明 | 出家前の僧正遍昭が、仁明天皇在位の時に平安宮中の「五節の舞(ごせちのまい)」を天女の舞いのように詠んだ歌です。五節の舞は、雅楽の調べにのせた貴族の女性数人が舞姫となった踊りです。この当時は公卿の娘が五節の舞の舞姫に選ばれることは、将来后妃候補として入内する前提となっていました。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 五節の舞が行われた内裏をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:52】 場所: 平安宮・近衛府 (陽明門の北) |
和歌 | 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな |
作者名 生年没年 | 藤原道信朝臣 [ふじわらのみちのぶあそん] 天禄3年~正暦5年 (西暦 972年~994年) |
作者について | 藤原道信朝臣は、平安時代中期の貴族で歌人であり、藤原範兼が選んだ中古三十六歌仙のひとりです。 従四位上・左近衛中将にまで任ぜられました。 藤原道信は藤原為光の子で、為光は兄弟である藤原兼家(藤原道長の父)と摂政関白の座を争っていましたが、986年の花山天皇の出家により兼家が摂政となりました。同年、道信は14歳の時に兼家の養子となり従五位上に任ぜられ、その後に和歌の名手として知られますが、23歳で亡くなります。 |
和歌の説明 | この和歌は後拾遺和歌集に選ばれた歌で、詞書によれば、雪の日に女性のもとから帰ってからその女性に遣わした歌です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 武官として左近衛中将になりましたので、大内裏の陽明門の北に置かれた左近衛府をゆかりの地としました。 |