平安時代の平安京洛内(一条大路から九条大路、東京極大路から西京極大路までの範囲)、および洛外でも都のごく近辺で詠われた百人一首の歌、作者、歌のゆかりの地の説明をして地図でご案内しています。
宮殿である平安宮の百人一首はこちら、洛外の百人一首はこちらをご覧ください
ゆかりの地の場所の説明は、「六条烏丸」「四条上ル」「北二条東入ル」といった京都の地名風の書き方ですと、京都の地名になじみがないとわからない可能性があるので、東西の道名、南北の道名に対して東西南北で記載しています。
百人一首のゆかりの地の選らび方については、「百人一首のゆかりの地について」をご覧ください
参考資料
上記の「平安京の百人一首図」は、「平安京跡データベース」の平安京復元地図を参照して制作しています。
原典:平安京跡データベース
制作:立命館大学アート・リサーチセンター/立命館大学歴史都市防災研究所
https://heiankyoexcavationdb-rstgis.hub.arcgis.com/
図内の緑色の( )内の明朝体の文字 (千本通) (二条城)(丸太町通) は現在の地名を表しています。
歌番号、場所 | 【歌番号:21】 場所: 平安京・雲林院 (一条大路の北、大宮大路の北端の北 (内裏の北付近) ) |
和歌 | 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな |
作者名 生年没年 | 素性法師 [そせいほうし] 生年没年不明。 896年に雲林院の権律師に任ぜられ、909年の醍醐天皇に歌を献じているので、800年代後半から900年初頭に活躍したと考えられます。 |
作者について | 素性法師の俗名は良岑玄利です(ただし複数説があります)。藤原公任の選んだ三十六歌仙の一人です。僧正遍昭(歌番号12)の子で、桓武天皇のひ孫です。幼い時に父が兄とともに出家させました。清和天皇に仕えていました。 |
和歌の説明 | 古今集の歌です。長月は旧暦の9月で、現在の10月頃です。 すぐに来ると言われて待っているうちに、九月の長い夜を明け方の月まで待ってしまった、という状況を女性の立場で読んだ歌です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 素性法師が住んでいた、和歌・漢詩の会の催しの場であった雲林院(ゆかりの地としました。 雲林院は都に近い洛北にあり、内裏の北付近の一条大路の北、大宮大路の北端の北 |
歌番号、場所 | 【歌番号:96】 場所: 平安京・西園寺山荘(道祖大路の北端を北方向)と、西園寺公経屋敷 (近衛大路北、東洞院通東) |
和歌 | 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり |
作者名 生年没年 | 入道前太政大臣 [にゅうどうさきのだじょうだいじん] (藤原公経 [ふじわらのきんつね]、または西園寺公経) 生年不明、承徳3年 (西暦1099年) |
作者について | 入道前太政大臣は、藤原公経(西園寺公経)のことです。藤原氏一族の中で、西園寺家と呼ばれる藤原北家閑院流の家系です。 鎌倉幕府初代将軍・源頼朝とは遠縁の親戚で、妻は源頼朝の姪です。姉は藤原定家(百人一首歌番号97)の妻です。 後鳥羽上皇が起こした承久の乱では、鎌倉幕府へ倒幕計画を事前に伝え、幕府が勝利したことで後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門天皇が配流され、仲恭天皇が廃位されました。朝廷側の鎌倉幕府との窓口となり太政大臣にまで昇進し、朝廷や摂関の人事を左右する権力の中枢者となりました。 |
和歌の説明 | 新勅撰集の歌で、晩年に西園寺家の京都の北山にある山荘で落花の優雅な景色を見ながら、老いる身を重ねて詠んだものと言われています。西園寺公経は承久の乱の後に栄華を極めましたが、万人に訪れる老無常は感じざるを得なかったようです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 西園寺公経がこの歌を詠った山荘「西園寺」をゆかりの地としました。西園寺は、後に室町幕府三代将軍の足利義満に委譲され、山荘北山殿が作られます。その後、鹿苑寺(ろくおんじ)とし、舎利殿「金閣」を建ててから通称「金閣寺」と呼ばれるようになりました。 また、西園寺公経の邸宅は、一条大路の南側にある近衛大路の北、東洞院通の東にありました。 現在の京都御所の南側、建礼門から少し南西に寄った場所にあたります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:81】 場所: 徳大寺 (一条大路の西端の北方向) |
和歌 | ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れ |
作者名 生年没年 | 後徳大寺左大臣 [ごとくだいじのさだいじん] (藤原実定) 保延5年~建久2年 (西暦1139年~1191年) |
作者について | 後徳大寺左大臣とは、藤原北家閑院流徳大寺家の藤原実定のことです。祖父の藤原実能が徳大寺家の始祖で左大臣であったため、「徳大寺左大臣」と呼ばれました。その孫の藤原実定が左大臣になった時は「後徳大寺左大臣」と呼ばれました。 時代としては、後白河上皇が権力を持ち、平家と源氏が戦っていた頃の公卿で、源頼朝の信頼を得て幕府と朝廷の取次をおこなうようになりました。 |
和歌の説明 | 「暁にほととぎすを聞く」という題で読まれた和歌で、千載集に収められました。ホトトギスは平安時代は夏の訪れを告げる鳥であったそうです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 藤原実定の祖父の実能が葛野郡衣笠岡に徳大寺を建立したことが、「徳大寺家」の名の由来です。名前の由来にちなんで徳大寺をゆかりの地としました。 徳大寺はその後廃寺となり、その後に龍安寺を建立され、現在の京都市右京区龍安寺御陵ノ下町にあたります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:81】 場所: 平安京・ 徳大寺 |
和歌 | ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れ |
作者名 生年没年 | 後徳大寺左大臣 [ごとくだいじのさだいじん] (藤原実定) 保延5年~建久2年 (西暦1139年~1191年) |
作者について | 後徳大寺左大臣とは、藤原北家閑院流徳大寺家の藤原実定のことです。祖父の藤原実能が徳大寺家の始祖で左大臣であったため、「徳大寺左大臣」と呼ばれました。その孫の藤原実定が左大臣になった時は「後徳大寺左大臣」と呼ばれました。時代としては、後白河上皇が権力を持ち、平家と源氏が戦っていた頃の公卿で、源頼朝の信頼を得て幕府と朝廷の取次をおこなうようになりました。 |
和歌の説明 | 「暁にほととぎすを聞く」という題で読まれた和歌で、千載集に収められました。ホトトギスは平安時代は夏の訪れを告げる鳥であったそうです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 藤原実定の祖父の実能が、葛野郡衣笠岡(現在の京都市北区)に徳大寺を建立したことが、「徳大寺家」の名の由来です。名前の由来にちなんで徳大寺をゆかりの地としました。祖父・実能は徳大寺の近くに山荘を建てました。徳大寺は廃寺となり、今は龍安寺を建立されています。徳大寺は、現在の京都市右京区龍安寺御陵ノ下町にあたります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:45】 場所: 平安京・一条院 (一条大路南、御所の東隣り) |
和歌 | 哀れとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな |
作者名 生年没年 | 謙徳公 [けんとくこう] (藤原伊尹[ふじわらのこれまさ]または[これただ]) 延喜2年~天禄3年 (西暦 924~972年) |
作者について | 藤原伊尹は、公卿で歌人であり、摂政にまでなりました。九条右大臣・師輔の長男で、関白・兼家の兄にあたります。「謙徳公」は、藤原伊尹の死後に贈られた諡(おくりな)です。 娘の懐子が産んだ皇子が花山天皇となり、天禄二年に摂政太政大臣になりました。 |
和歌の説明 | 拾遺集の歌です。哀れんでくれる人も思いつかず、あなたを恋しく思いながら虚しく死んでしまいそうです、と解されます。身分も高く最高位まで出世した藤原伊尹が、女性に冷たくされて気を引くために詠ったのか、真意は謎です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 藤原伊尹の邸宅があった一条院をゆかりの地としました。一条大路沿いの御所の東隣りあたりにありました。現在は上京区の名和(なわ)児童公園の西側に、京都市の源氏物語ゆかりの地の説明板「一条院跡(いちじょういん-あと)」の碑があります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:44】 場所: 平安京・土御門第 (土御門大路北、東京極大路の西) |
和歌 | 逢ふことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし |
作者名 生年没年 | 中納言朝忠 [ちゅうなごんあさただ] (藤原朝忠) 延喜10年~康保3年 (西暦 910年~966年) |
作者について | 藤原朝忠(中納言朝忠)は、藤原公任が選んだ三十六歌仙の一人で従三位中納言にまで昇進しました。土御門大路沿いに邸宅があったため、土御門中納言、堤中納言とも称されます。 三条右大臣・藤原定方(歌番号25)の子どもです。藤原道長の正室・源倫子は、藤原朝忠の孫娘にあたります。藤原朝忠は、かなりな肥満であったと言われています。 |
和歌の説明 | 村上天皇の天徳内裏歌合で詠われた歌で、拾遺集に収録されました。逢うことがなければ、相手や自分の運命を恨んだりしなかっただろうに、と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 土御門大路沿いに藤原朝忠の邸宅があり、そこをゆかりの地としました。この家は娘・藤原穆子とその婿・源雅信に引き継がれ、さらに穆子と源雅信の娘の源倫子とその婿・藤原道長に引き継がれました。 に藤原朝忠の邸宅は、一条大路の南にある土御門大路の東端の、東京極大路に近い土御門第(藤原道長邸宅跡)にありました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:50】 場所: 平安京・桃園邸(世尊寺) (一条大路北・大宮大路末北) |
和歌 | 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな |
作者名 生年没年 | 藤原義孝 [ふじわらのよしたか] 天暦8年~天延2年 (西暦 954年~974年) |
作者について | 藤原義孝は、謙徳公と呼ばれた藤原伊尹(歌番号45)zの子で、公卿で歌人でした。能書家でしたが疱瘡のために21歳で世を去ります。藤原義孝の子は行成であり、藤原行成は一条天皇、藤原道長に信頼されました。 |
和歌の説明 | この和歌は「後拾遺集」に選ばれたもので、詞書から後朝(女性のもとから帰って送る恋歌)です。あたなのために惜しくないと思っていた命も、お逢いできた今は長くあってほしい、と解されています。 藤原義孝の屋敷・桃園邸に、後に息子の藤原行成が世尊寺を建立しました。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 藤原義孝の屋敷・桃園邸に、後に息子の藤原行成が世尊寺を建立しました。桃園邸(世尊寺)は一条大路・大宮大路の北端よりも北の大内裏北方(現在の京都市大宮通一条上ルのあたり)にありました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:57】 場所: 平安京・堤邸 (藤原兼輔屋敷、後に廬山寺 ) (土御門大路東端の北東側) |
和歌 | めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな |
作者名 生年没年 | 紫式部 [むらさき しきぶ] 生年、没年不明 (西暦 970年代~1020年前後) |
作者について | 紫式部は、女流歌人で、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の娘)に仕えた源氏物語の作者で、女房三十六歌仙のひとりです。かつて式部丞の官職にあった藤原為時の娘で、紫式部の「式部」はこの官職に由来すると言われています。中納言・藤原兼輔の三代目の孫であり、大弐三位(藤原賢子)(歌番号58)の母です。 一条天皇の中宮・彰子のもとには、女流歌人の女官が多く集められました。赤染衛門(歌番号59)、和泉式部(歌番号56)、伊勢太輔(歌番号61)、が中宮・彰子のサロンを形成していました。源氏物語は藤原道長の命により、そうしたサロンとともに彰子が天皇の寵愛を得るために書いたものでした。 |
和歌の説明 | この和歌は、紫式部が幼友達と久しぶりに会ったけれど、ゆっくり話す間も無く月と競うように帰ってしまった寂しさを詠ったものです。 「新古今集」雑上に選ばれた歌で、詞書には「はやくより童友達に侍りける人の、年ごろ経てゆきあひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきほひて帰り侍りければ」。新古今和歌集では歌の最後が「夜半の月影」となっています。旧暦7月10日は現代の西暦(グレゴリオ暦)では7月後半~8月の後半頃の時期です。 紫式部は、曾祖父である藤原兼輔の鴨川近くの屋敷で育ち過ごしました。その屋敷は、現在は廬山寺となっています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 紫式部は、曾祖父である藤原兼輔の鴨川近くの堤邸と呼ばれた屋敷に住んでいましたのでそこをゆかりの地としました。現在は廬山寺となっています。 廬山寺は、一条大路の南にある土御門大路の東端のの東側、法成寺の北にありました。現在の京都市上京区寺町通り広小路上ル北之辺町にあたります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:80】 場所: 平安京・法金剛院 (平安京の北西角付近、西京極大路の西) |
和歌 | 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は 物をこそ思へ |
作者名 生年没年 | 待賢門院堀河 [たいけんもんいんのほりかわ] 生年没年不明。 歌合に参加した記録は1126年~1150年で、この頃活躍したと考えられます。 |
作者について | 待賢門院堀河は、村上源氏一族の神官である源顕仲の娘で、女房三十六歌仙のひとりです。白河上皇の皇女・令子内親王が斎院を退いた時に仕え、その時は前斎院六条と呼ばれました。後に鳥羽天皇の皇后である待賢門院彰子に仕え、堀川と呼ばれました。待賢門院彰子は、崇徳天皇と後白河天皇の母です。 |
和歌の説明 | この和歌は崇徳院の久安百首のための題詠として詠まれた歌ですので、実際の恋の歌ではありません。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 鳥羽天皇の中宮待賢門院彰子が復興した法金剛院には、彰子が造園させた極楽浄土を模した庭があります。また晩年の彰子が過ごした場所でもあります。ここには待賢門院堀河の歌碑が建てられています。法金剛院は西京極大路の西側で、一条大路と二条大路の間付近にあります。現在の丸太通りのJR花園駅の北 (右京区花園扇野町)にあたります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:54】 場所: 平安京、東三条殿 (三条大路北、東洞院大路西) |
和歌 | 忘れじの 行末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな |
作者名 生年没年 | 儀同三司母 [ぎどうさんしのはは] (高階貴子) 生年不明 。没年は長徳2年 (西暦996年) |
作者について | 高階貴子(儀同三司母)は、中関白藤原道隆の妻で、藤原藤原伊周の母です。伊周が准大臣という大臣に準ずるの待遇となった時に、儀同三司(三司(太政大臣、左大臣、右大臣)と同じ)と号したことから、高階貴子は儀同三司母と呼ばれました。高階貴子は、一条天皇の中宮・定子と家隆の母でもあります。 夫・道隆の死後、伊周、隆家らは995年の長徳の変で流刑(後に許されます)となり、娘定子は出家して中宮の座を追われて中関白は没落し、高階貴子はその翌年に失意のうちに亡くなりました。 |
和歌の説明 | この和歌は、藤原道隆が高階貴子のもとに通っていた頃に詠まれたたものです。 いつまでも忘れないという約束を頼りにはできないので、そう言ってくれた今日を最期として死んでしまいたい、と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 高階高子と藤原道隆の住んだ屋敷・東三条殿をゆかりの地としました。三条大路の北、東洞院大路の西にありました。「東三条殿」の碑が京都市中京区の押小通路釜座の西北角にあります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:73】 場所: 平安京・江家文庫 (五条大路南の樋口小路、西洞院大路東) |
和歌 | 高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ |
作者名 生年没年 | 前権中納言匡房 [さきのちゅうなごんまさふさ] (大江匡房) 長久2年~天永2年 (西暦1041年~1111年) |
作者について | 大江匡房(前中納言匡房)は、赤染衛門(歌番号59)の曾孫にあたります。大江家はかつては名家で、大江匡房の5代前の大江維時が従二位・中納言となりましたが、それ以降は公卿を出していませんでした。家の再興が大江家の悲願でしたが、大江匡房は公卿(従三位権中納言)となり、最終的には正二位・大蔵卿にまで昇進して家を再興させました。有力な血縁者もなく自力で昇進した非常に優秀な人物でした。 大江匡房の書いた「江談抄」(ごうだんしょう)では、吉備入唐間事で吉備真備と安倍仲麻呂の唐での物語が書かれていますが、「吉備大臣入唐絵巻」の元になっています。 大江匡房の曾孫の大江広元は、鎌倉幕府を支えた功労者となりました。また大江広元の家系は安芸毛利氏につながります。 |
和歌の説明 | 後拾遺集の和歌で、内大臣であった藤原師道の屋敷で「遥望山桜」という題で詠われたとされています。高い山の峰にまで桜が咲いており、どうか霞がたたないでくれ、と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 大江匡房は二条にあった千草殿と呼ばれる書庫を買い取り、大江家の蔵書を収めた「江家文庫」という書庫にしましたので、江家文庫をゆかりの地としました。 江家文庫(千草殿)は、五条大路の南側の樋口小路(現・万寿寺通)の南、西洞院大路(現・西洞院通)の東側から町尻まちじり小路(現・新町通)の西側までの範囲にあり、藤原通憲の歴史書「本朝世紀=史官記=外記」によれば一町四方の区域をしめていました。その後、仁平3年(1153年)に起きた都の大火で焼失してしまいました。 大江匡房邸は二条高倉にありましたが、そこにはもう一つ江家文庫とよばれる書庫があったらしいと伝えられています。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:30】 場所: 平安京・壬生忠岑 宅 (四条坊門小路の南、坊城小路の西) |
和歌 | 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし |
作者名 生年没年 | 壬生忠岑 [みぶのただみね] 貞観2年頃~延喜20年頃 (西暦 860年頃~920年頃) |
作者について | 壬生忠岑は、三十六歌仙の一人で、古今集(延喜5年=905年奏上)の撰者の一人です。古今和歌集の撰者でもあり、歌人として有名でした。 壬生忠見(百人一首41番)は壬生忠岑の子です。 |
和歌の説明 | 古今集の歌です。「有明の月 」は、 夜明けになっても空に残っている月のことです。 逢瀬の夜が明けて男性が女性のもとを去っていくときの、有明の月の恨めしさを詠ったと言われていますが、女性を恨めしく思うという解釈もあります。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 「山州名跡志」(正徳元年=1711年刊行)によれば、壬生忠岑の住まいは、「壬生の西、坊城東綾小路の北四条の南」にあったそうですが、平安前期と中期以降では右京の衰退に伴い、当時壬生と呼ぶ範囲が東にずれています。百人一首地図の、四条大路の北にある四条坊門小路の南側、朱雀大路の東側にある坊門小路の西側にあたります。現在の四条坊門小路跡にあたります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:83】 場所: 平安京・俊成邸宅 (五条大路の東端、東京極大路の西) |
和歌 | 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる |
作者名 生年没年 | 皇太后宮大夫俊成 (藤原俊成) 承久2年~元久元年 (西暦 1114年~1204年) |
作者について | 皇太后宮大夫俊成とは藤原俊成のことで、歌道家として有名な藤原北家御氏左家の家系で、藤原定家(歌番号83の作者)の父です。後白河天皇の皇女・式子内親王(歌番号89の作者)の歌の師匠であり、勅撰和歌集である「千載和歌集」の撰者です。 歌道の六条家、藤原清輔(歌番号84)とは歌道の世界を二分する代表的歌人でした。平家が勃興し、滅亡する頃の時代を生きた歌人でした。 |
和歌の説明 | この和歌は、友人の佐藤義清が出家して西行法師となった際に詠ったと言われています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 俊成の邸宅は現在の五条大路 (現在の松原通)、東京極大路沿い にあったところから五条三位と呼ばれました。俊成宅をゆかりの地としました。 五条大路の東端の北、東京極大路の西にありました。俊成を祀る俊成社は、現在のホテル京都ベース四条烏丸前にあります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:47】 場所: 平安京・河原院跡 (六条大路の北、東京極大路の西) |
和歌 | 八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり |
作者名 生年没年 | 恵慶法師
[えぎょうほうし] 生年没年不明。 962年の歌合、986年に花山院の熊野行幸に共をした記録があり、900年代後半ごろ活躍した歌人と考えられます。 |
作者について | 経歴は不明ですが、中古三十六歌仙のひとりで、大中臣能宣(歌番号49)・紀時文(紀貫之の子)・清原元輔(歌番号42)など公家歌人と交流していました。986年には花山院の熊野行幸に供奉した記録がある |
和歌の説明 | 恵慶法師が「河原院」の跡を訪ねた時に詠んだ歌で、拾遺集に収められました。河原院は河原左大臣・源融(822~895年)の広大かつ豪華な屋敷でした。源融の死後に宇多上皇(上皇の期間897年~931年)に献上され仙洞御所になりましたが、その後寺となり、火災にあい、この歌が詠われた頃には荒れ果ててしまいました。 かつて栄華を誇った場所が、八重むぐらが茂る寂しい住まいになってしまい、誰も来なくなったが秋だけはやってくる、という感慨を詠ったものと解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 恵慶法師が訪ねた河原院跡をゆかりの地としました。河原院は南は六条大路、北は六条坊門小路、東は東京極大路、西は萬里小路までの敷地にある一町四方の広大な屋敷でした。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:79】 場所: 平安京・六条家宅 (六条烏丸) |
和歌 | 秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ |
作者名 生年没年 | 左京大夫顕輔 [さきょうのだいぶ あきすけ] (藤原顕輔) 寛冶4年~久寿2年 (西暦 1090年~1155年) |
作者について | 藤原顕輔(左京大夫顕輔)は、藤原北家魚名流の歌道の六条家の家系です。崇徳院から詩花和歌集の撰者を命じられました。歌人・藤原清輔(歌番号84)は藤原顕輔の子です。 |
和歌の説明 | 新古今集の歌で、崇徳院に献上した百首の中の一首です。 秋の夜の月を美しく詠った歌です。 六条家の名前の由来となった、邸宅の場所である平安京・六条烏丸をゆかりの地としました。六条家の名前の由来となった、邸宅の場所である平安京・六条烏丸をゆかりの地としました。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 六条家の名前の由来となったで六条烏丸邸宅の場所をゆかりの地としました。 「平城京跡データベース」の地図によれば、藤原顕輔 の家は、そこから西の六条大路北、大宮大路の西にあったようです。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:84】 場所: 平安京・六条家邸宅 (六条大路北、烏丸小路西)) |
和歌 | 長らへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき |
作者名 生年没年 | 藤原清輔朝臣 (ふじわらのきよすけあそん) 長冶元年~冶承元年 (西暦 1104年~1177年) |
作者について | 藤原清輔朝臣は、藤原北家善勝流、歌道家の六条家の家系です。藤原顕輔(百人一首歌番号79)が父ですが、父とは確執があり、長く官位にも恵まれませんでした。40代になって活躍を始め、二条天皇に重用されました。 御氏左家・藤原俊成(歌番号83)とは、歌道の世界を二分する代表的歌人でした。歌を論じた大作「袋草紙」を残しました。 |
和歌の説明 | 新古今集の歌で、藤原清輔も昇進できず不遇な前半生でしたが、藤原清輔の友人が昇進できずに悩んでいるのを慰めるために詠んだと言われています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 父・藤原顕輔と同じく六条家の名前の由来となった、六条烏丸にある邸宅をゆかりの地としました。六条大路の北、東洞院大路の西が二ある烏丸小路の西にありました。 |