都よりも東の、東北地方、関東地方、東海地方、伊勢にある「百人一首の歌が詠っている場所、または歌人のゆかりの地」と、その百人一首の歌をご紹介します。
東北の百人一首
歌番号、場所 | 【歌番号:90】 場所: 松島の尾島 |
和歌 | 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず |
作者名 生年没年 | 殷富門院大輔 [いんぷもんいんのたいふ] 生没年不明。推定では 大治5年頃~正治2年頃 (1130年頃~1200年頃) |
作者について | 殷富門院大輔は、女房三十六歌仙のひとりです。藤原信成の娘で、後白河上皇の皇女、殷富門院・亮子内親王に仕えました。亮子内親王は式子内親王(歌番号90)の姉です。 |
和歌の説明 | 千載集の歌です。悲しみの涙で変わってしまった私の袖の色をあなたにお見せしたい。(奥国・松島の)雄島の漁夫の袖さえ濡れても色までは変わらないのに、と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 陸奥国・松島の雄島 (宮城県東松山市 宮戸大室)をゆかりの地としています。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:42】 場所: 末の松山 (宮城県多賀城市・寳國寺の裏山) |
和歌 | 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは |
作者名 生年没年 | 清原元輔 [きよはらのもとすけ] 延喜8年~永祚2年 (908年~990年) |
作者について | 清原元輔は清少納言(歌番号62)の父で、清原深養父(歌番号36)の孫です。後撰集の撰者のひとりで、藤原公任が選んだ三十六歌仙のひとりです。 |
和歌の説明 | 後拾遺集の歌です。後拾遺集の詞書によれば、友人が心変わりした女性を責める気持ちを、清原元輔が代作したものです。 「末の松山を津波が超すことはない」はつまり「決して起きない」ことの歌枕です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 末の松山は現在の宮城県多賀城市付近で、寳國寺の裏山の「末松山」と言われています。 この和歌の数十年前の貞観11年(869年)に起きた貞観大地震でも津波が発生して大きな被害が出ました。 津波が到達した場所よりも遥か遠くの場所ではこうした言い方は生まれないでしょうから、おそらくは大津波が末松山のぎりぎり手前で止まったのでしょう。 2011年の東日本大震災では津波が多賀市の市街地奥まで入り込みましたが、末の松山には達していないそうです。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:14】 場所: 信夫(しのぶ)郡 |
和歌 | 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに |
作者名 生年没年 | 河原左大臣 (源融) [みなもとのとおる] 弘仁13年~寛平7年 ( 822年~895年) |
作者について | 河原左大臣・源融は嵯峨天皇の皇子で、皇族から臣籍降下して源融を名乗りました。京都六条の河原院に屋敷があり、官位が左大臣であったため、河原左大臣と呼ばれました。源氏物語の光る源氏のモデルの一人とされています。 |
和歌の説明 | これは古今集の歌です。「忍捩摺(しのぶもぢずり)」は、陸奥国・信夫郡(しのぶぐん)で作られ、忍草の汁を石にこすり付け、布に色を移した染物で乱れ文様が特徴です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 陸奥国・信夫郡(しのぶぐん)は、現代の福須県北部(=江戸時代の福島領 = 明治時代に一時存在した岩代国付近)にありました。 |
関東、東海、伊勢の百人一首
歌番号、場所 | 【歌番号:13】 場所: 筑波山 |
和歌 | 筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる |
作者名 生年没年 | 陽成院 [ようぜいいん] 貞観18年~元慶8年 (876年~884年) |
作者について | 陽成院は清和天皇の皇子で、清和天皇から譲位され陽成天皇になりました。藤原基経(母・藤原高子の兄弟)に退位させられて上皇となり、二条院(陽成院)に住まわれました。 |
和歌の説明 | 後撰集の歌で、陽成院が光孝天皇の皇女、綏子内親王を思う気持ちを詠んだものです。 筑波山の男体山、女体山の二つの峰から落ちる水の流れが男女川(=水無川=みなのがは)で、桜川に注ぎます。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 筑波山は、 下野国(現在の茨木県)にあります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:23】 場所: 下総国・伊波乃浦 (印旛沼) |
和歌 | 月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど |
作者名 生年没年 | 大江千里
[おおえのちさと] 生年没年不明 800年代後半から900年代前半に活躍した歌人です。 |
作者について | 大江千里は、漢学者、歌人で、父は参議・大江音人です。父の大江音人は、諸説ありますが阿保親王(平城天皇の皇子)の子で大江本主の養子となり、在原業平、 行平は大江千里の叔父にあたります。藤原範兼の選んだ中古三十六歌仙です。 大江氏と菅原氏は同族です。 |
和歌の説明 | 古今集の歌で、白楽天の漢詩が元になっており、秋の月のもの悲しさを詠ったものと言われています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 大江千里が下総国を詠った歌が現在の千葉県・佐倉市に幾つか歌碑になっています。伊波乃浦(千葉県・印旛沼)を詠った古今集の歌の歌碑が、印旛沼近く(現在の千葉県・佐倉 印旛沼湖畔「野鳥の森」)に建てられています。「下つさの 伊波乃浦なみ た津らしも舟人さわぎ から櫓おすなき」 |
歌番号、場所 | 【歌番号:93】 場所: 鎌倉・由比ヶ浜 |
和歌 | 世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ あまの小舟の 綱手かなしも |
作者名 生年没年 | 鎌倉右大臣 [かまくらのうだいじん] (源実朝) 建久3年~建保7年( 1192~1219年) |
作者について | 源実朝(鎌倉右大臣)は、源頼朝の二男です。鎌倉幕府の第三代将軍で、建保六年(1218年)に右大臣となりました。二代将軍である兄・頼家が暗殺された後に将軍となりましたが、執権である北条氏が政治の実権を握っていました。藤原定家(歌番号97)を和歌の師匠として仰ぎ、後鳥羽上皇(歌番号99)とも良好な関係でした。右大臣となった2月後に兄・頼家の子・公暁に鶴岡八幡宮で暗殺されました。 |
和歌の説明 | 新勅撰集の歌で、漁師が小舟を引くに様子に心寄せながら、大きく変わった自分の人生を思いつつ、世の中が変わらないでいて欲しいという思いを詠ったと言われています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 実朝が宋国に渡るために由比ヶ浜で船を建造しましたが、船を浮かべることができませんでした。実朝が船を建造し、海や漁師を眺めたであろう鎌倉・由比ヶ浜を、ゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:65】 場所: 箱根権現 (現在の箱根神社) |
和歌 | 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ |
作者名 生年没年 | 相模 [さがみ] 生年没年不明。推定では 長徳4年頃 ~康平4年以降 (998年頃~1061年以降)。 後朱雀天皇、後冷泉天皇の頃に活躍した女流歌人です。(両天皇の在位は1036~1068年) |
作者について | 相模は、大江山の酒呑童子退治で有名な源頼光の養女と言われています。橘則長の結婚しますが離別し、三条天皇の中宮・藤原妍子(藤原道長の娘)に仕えました。夫・相模守の大江公資と共に相模に下りましたが、離婚しました。その後、一条天皇と藤原定子の皇女である脩子内親王に仕えました。その後、後朱雀天皇の皇女・祐子内親王にも仕えました。多くの勅撰和歌集に歌が残された歌人でした。 |
和歌の説明 | 1050年の脩子内親王の歌合せに際に詠われた歌ですので、実際の恋の歌ではありません。五十歳を過ぎた頃の歌で、後拾遺集に収められました。 夫・大江公資の任地・相模国へ共に赴いた時に、箱根権現(関東総鎮守箱根大権現、現在の箱根神社)に、百首の詠歌を相模が奉納しました。そこで箱根権現社をゆかりの地としました。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 相模が 夫・大江公資の任地・相模国へ共に赴いた時に、箱根権現(関東総鎮守箱根大権現、現在の箱根神社)に、百首の詠歌を相模が奉納しました。そこで箱根権現社をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:4】 場所: 田子の浦 富士山 |
和歌 | 田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士のたかねに 雪は降りつつ |
作者名 生年没年 | 山辺赤人
[やまべのあかひと] 生年没年不明 元明天皇、元正天王、聖武天皇に仕えたことから700年代前半頃に活躍したものと考えられます。 |
作者について | 元明天皇、元正天王、聖武天皇に仕えた宮廷歌人で、三十六歌仙です。名前は山辺または山部と書かれます。下級官人であったと言われています。 |
和歌の説明 | 万葉集の歌で、駿河国を旅した時に、富士山を見て詠まれたものです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 田子の浦は駿河国の富士川あたり(現在の静岡県由比町の辺り)の海辺で、そこからみた富士山の雄大な光景を詠っています。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:59】 場所: 尾張 赤染衛門衣掛けの松 |
和歌 | やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな |
作者名 生年没年 | 赤染衛門 [あかぞえもん] 天暦10年頃 ~ 長久2年以降 (956年頃~1041年以降) |
作者について | 赤染衛門 は右衛門尉 赤染時用の娘で、女流歌人です。 赤染衛門 は、源倫子(後に藤原道長の妻となる)に仕えていましたが、後に藤原道長の娘である一条天皇の中宮・彰子に使え、大江匡衡と結婚しました。大江匡房(歌番号73)は、赤染衛門の曾孫にあたります。 |
和歌の説明 | 赤染衛門の姉妹のもとに通っていた藤原道隆(藤原道長の兄)が通わなくなり、姉妹のかわりに、赤染衛門が詠んだ和歌だと言われています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 赤染衛門は3回にわたり尾張守となった夫・大江匡衡と共に任地・尾張(現在の愛知県)で暮し、赤染衛門衣掛けの松に、現在は赤染衛門歌碑公園(愛知県稲沢市)があります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:63】 場所: 伊勢神宮 |
和歌 | 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな |
作者名 生年没年 | 左京大夫道雅 (藤原道雅) 正暦3年~天喜2年 (992~1054年) |
作者について | 左京大夫道雅は藤原道雅のことで、藤原伊周(藤原道長の甥)の子です。藤原道雅が5歳の頃、父・藤原伊周が長徳2年(996年)に起こした長徳の変によって中関白家が没落してきましたが、藤原 道雅は昇進していきました。 |
和歌の説明 | この和歌は、皇女・当子内親王(伊勢神宮に使える斎宮であった)への思いを詠んだもので後拾遺集に収められました。斎宮は恋を禁じられていますが、伊勢斎宮の役目を終えた当子内親王と長和5年(1016年)に密通し、当子内親王の父・三条院(三条天皇の退位後の名)の譴責を受けて仲を裂かれました。逢えない思いを歌にしたものです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 当子内親王は、伊勢神宮に使える斎宮であったため、伊勢神宮をゆかりの地としました。 |