奈良(飛鳥京、藤原京、恭仁京、平城京)と吉野をゆかりの地とした百人一首の歌と、百人一首の場所をご紹介します。
百人一首の歌に歌われた場所、または作者のゆかりの場所を「ゆかりの地」としています。
日本書記などの地名の記録が残っている範囲では、大和朝廷の都は 飛鳥京→難波京→大津京→飛鳥京→藤原京→平城京→恭仁京→(甲賀京、紫香楽宮)→難波京→平城京→長岡京→平安京 と遷都されました。都の移り変わりはこちらをご覧ください。平安京と難波京で詠われた百人一首は、難波京の百人一首、平安京洛内の百人一首、平安京洛外の百人一首をご覧ください。
吉野も百人一首に限らず、和歌に多く詠われた名所で、多くの天皇が行幸されました。
地図のピンク色の文字が百人一首の場所です。国名と国府(律令の地方行政の役所)を記載しています。緑色の括弧付きの地名は現在の地名です。
都の範囲は、都が計画され造成された当時の範囲としています、
飛鳥京の百人一首
歌番号、場所 | 【歌番号:1】 場所: 飛鳥京・宮中 |
和歌 | 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ |
作者名 生年没年 | 天智天皇 [てんちてんのう] 推古天皇34年~天智天皇10年 (西暦626年~672年) |
作者について | 中大兄皇子は、斉明天皇が崩御されて天智天皇元年(662年)に即位して天智天皇となりました。天智天皇は天智天皇6年(667年)に飛鳥京から近江大津京へ遷都しました。 |
和歌の説明 | この和歌は、958年頃成立した「後撰集」巻六・秋中の、詠み人知らずの歌です。万葉集の歌が元になっているともいわれていますが、いつしか天智天皇の作と伝えられるようになりました。 天智天皇の作とした場合の解釈は、天智天皇が飛鳥京の御所の庭を歩いている時に、農民が草花の夜露が夜露に冷たく濡らしていることを思われた歌とされています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 天智天皇がこの歌を読まれたと言われている、飛鳥京の御所をゆかりの地としました。 |
藤原京の百人一首
藤原京周辺の香具山(天香具山)、初瀬の長谷寺の百人一首をご紹介します。
藤原京は、日本書記、故事類苑などの正史では新益京(しんますきょう)と記録されています。
飛鳥京から694年に藤原京へ遷都し、710年に平城京へと遷都するまでの期間に都とされました。
藤原京は現在の橿原 (かしはら) 市にあり、大和三山と呼ばれる耳成山 (みみなしやま)、畝傍山 (うねびやま)、天香久山 (あめのかぐやま)に囲まれています。藤原京は大和三山(耳成山、畝傍山 、天香久山)を含まない範囲としていますが、これは当初の研究による範囲であって、発掘調査が進んだ結果、大和三山を含む東西5.3km、南北5.3km程度の大きな都だったことが分かっています。後ほど修正したいと思います。
歌番号、場所 | 【歌番号:2】 場所: 天香具山 |
和歌 | 春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山 |
作者名 生年没年 | 持統天皇 [じとうてんのう] 大化元年~大宝2年 (西暦 645~702年) |
作者について | 持統天皇は天智天皇の皇女で、大海人皇(後の天武天皇)の后です。天武天皇が崩御された後、草壁皇子が亡くなったため持統天皇として即位しました。 藤原京は持統天皇の夫である天武天皇が造営を始め、持統天皇八年(694年)が遺志を継いで飛鳥京から藤原京に遷都しました。 |
和歌の説明 | 「春が過ぎ、夏が来たらしい。天の香具山に白い衣が見える」という思いの和歌です。 香具山(天香具山)は藤原京から東方向に見える山です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠われた香具山(天香具山)をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:74】 場所: 初瀬 |
和歌 | 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを |
作者名 生年没年 | 源俊頼朝臣 [みなもとのとしよりあそん] 天喜3年~大冶4年 (西暦 1055年~1129年) |
作者について | 源俊頼は、金葉集の撰者であった中央の官僚で、歌人です。堀河天皇、鳥羽手納、崇徳天皇に仕え、木工頭(宮中の造営を掌る長官)で従四位にまで任ぜられています。 |
和歌の説明 | この和歌は、権中納言俊忠の屋敷で開かれた歌会で詠まれた和歌です。奈良の初瀬にある長谷寺は、観音信仰の場ですが、十一面観音に恋の願掛けをする女性が多かった寺です。 この歌は恋の祈願が叶わず、代わりに冷たい山おろしが吹いている様を詠ったものと言われています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠われた奈良の初瀬(現在の奈良県桜井市)をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:33】 場所: 長谷寺 |
和歌 | 久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ |
作者名 生年没年 | 紀友則 [きのとものり] 承和12年頃~延喜7年頃 (西暦 845年頃~907年頃) 800年代後半から900年代初頭にかけて歌人として活躍しました。 |
作者について | 紀友則は、官人で歌人であり、藤原公任が選んだ三十六歌仙のひとりです。古今集、後撰集、拾遺集に和歌が収められています。紀貫之(歌番号35)は紀友則の年下の従弟です。 |
和歌の説明 | 古今集の歌です。紀友則が久しぶりに長谷寺(現在の奈良県桜井市)近くの宿を訪れた時に詠ったと言われています。長谷寺には多くの参拝者がありました。「源氏物語」や「枕草子」にも長谷寺詣でが記されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 紀友則がこの歌を詠ったと言われる初瀬の長谷寺をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:35】 場所: 長谷寺近くの宿 |
和歌 | 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける |
作者名 生年没年 | 紀貫之 [きのつらゆき] 貞観10年頃~天慶9年頃 (西暦 868年頃~946年頃) |
作者について | 紀貫之は土佐日記の作者で、古今和歌集の撰者の主要な一人であり、藤原公任が選んだ三十六歌仙のひとりです。官位は低くても誰もが認める歌人でした。 紀友則(歌番号33)は、紀貫之より年長の従弟にあたります。 |
和歌の説明 | 古今集の歌で、詩書によれば紀貫之が長谷寺(現在の奈良県桜井市)近くのなじみの宿に泊まり、宿の主人に久しぶりだと言われた際に作った歌です。 あなたの気持ちは分かりませんが、奈良の梅の花は昔と変わらず咲いている、という様子を詠っています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 紀貫之 が泊まった宿の近くの長谷寺をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:53】 場所: 奈良・長谷寺 |
和歌 | 嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る |
作者名 生年没年 | 右大将道綱母 [うだいしょうみちつなのはは] 承平5年頃~長徳元年頃 (西暦 935年頃~995年頃) |
作者について | 右大将道綱母は 藤原倫寧の娘で、藤原兼家(藤原道長の父)と結婚し、後に右近衛大将となる道綱の母であることから右大将道綱母と呼ばれました。蜻蛉日記の作者です。 |
和歌の説明 | 右大将道綱母が書いた「蜻蛉日記」には、兼家に新しい女性ができことを知ったので、兼家が訪ねてきても門を開けませんでした。すると、兼家は別の女性のところに行ってしまったので、翌朝、右大将道綱母が色褪せた菊の花と一緒にこの和歌を贈ったとされています。 当時、多くの人が長谷寺詣をしましたが、右大将道綱母が長谷寺に詣でた時に、兼家が出迎えに行ったとされています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 初瀬の長谷寺をゆかりの地としました。 |
平城京(奈良)付近の百人一首
平城京は現在の奈良にある都で、710年に元明天皇の時に遷都されました。その後に聖武天皇が数年毎に遷都を繰り返しましたが、784年に桓武天皇が長岡京へ遷都するまでの間に都であり「奈良の都」と呼ばれました。長岡京は10年後の794年に平安京に遷都されました。
歌番号、場所 | 【歌番号:6】 場所: 平城宮 |
和歌 | かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける |
作者名 生年没年 | 中納言家持 (大伴家持) [おおともやかもち] 養老2年~延暦4年 (西暦718年~785年) |
作者について | 大伴家持は大伴氏の氏の長者で、中納言従三位にまで昇り、万葉集を撰者のひとりであり三十六歌仙のひとりです。光仁天皇の皇子・早良親王の東宮坊大夫(皇太子の御所の長官)で、陸奥按察使持節征東将軍にもあり、陸奥国も派遣され任地で亡くなります。長岡京への遷都が行われた翌年でした。 |
和歌の説明 | 新古今集の歌で、「天上の橋のように見える宮中の階段」を詠ったものです。 「かささぎの渡せる橋」とは、七夕の夜に織姫が天の川を渡れるように、かささぎがかける橋です。こ |
和歌、歌人ゆかりの地 | 大友家持がこの歌を詠った御所は平城宮の紫宸殿ですので、そこをゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:61】 場所: 奈良の都(平城京) |
和歌 | いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな |
作者名 生年没年 | 伊勢大輔 [いせのたいふ] 生年没年不明。推定では 永祚元年頃~康平3年頃 (西暦 989年頃~1060年頃) |
作者について | 伊勢大輔は、伊勢神宮の祭主である大中臣輔親の娘で、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の娘)の女御。和泉式部(歌番号56)、紫式部(歌番号57)と共に彰子に仕えました。 |
和歌の説明 | 宮中では、奈良から届けられた八重桜の献上品を受け取る役目がありました。その大事な役目を宮中に新しく仕えることになった伊勢太輔が、紫式部から譲られました。その時に、藤原道長から即興で歌を詠めと言われ、みごとに返したのがこの歌で、詩花集におさめられました。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠われた奈良の都(平城京)をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:91】 場所: 奈良・秋篠 |
和歌 | きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣片敷き ひとりかも寝む |
作者名 生年没年 | 後京極摂政前太政大臣 [ごきょうごくせっしょうさきのだいじょうだいじん] (藤原良経) 嘉応元年~建永元年 (西暦 1169~1206年) |
作者について | 藤原良経(九条良経)は藤原御堂流九条家の公家で、土御門天皇の摂政となり、太政大臣になりましたがその二年後に満38才に亡くなりました。保元の乱に勝利した関白・藤原忠通(歌番号76)は祖父にあたります。 藤原俊成(歌番号83)に歌を学び、藤原定家(歌番号97)の後援者でした。 |
和歌の説明 | 新古今集の歌で、秋の風情を詠んだもので、当時のきりぎりすは今でいうとコオロギです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 良経の号は「秋篠」で、霧の名所として知られた奈良の地名、秋篠からとられたものと言われていますので、秋篠をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:75】 場所: 奈良・興福寺 |
和歌 | 契りおきし せもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり |
作者名 生年没年 | 藤原基俊 [ふじわらのもととし] 康平3年~康冶元年 (西暦 1060~1142年) |
作者について | 藤原基俊は、貴族で歌人、書家でした。藤原俊成(歌番号83)は、基俊の弟子でした。藤原北家中御門流の右大臣・藤原俊家の子どもで、藤原道長の曽孫にあたる名門ですが、従五位上・左衛門佐までの昇進でした。後に出家し、覚舜と名乗りました。 |
和歌の説明 | 藤原基俊の子・光覚は、奈良・興福寺の僧侶でした。興福寺の「維摩会」(維摩経を講読する旧暦10月の行事)で、講師として光覚を選ぶように、藤原基俊から時の権力者・藤原忠道(歌番号76)へ依頼し約束されました。ですが、約束が果たされないまま秋が終わってしまうことを詠った歌です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 興福寺をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:7】 場所: 奈良・三笠山 |
和歌 | 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも |
作者名 生年没年 | 阿部仲麻呂 [あべのなかまろ] 大宝元年~宝亀元年 (西暦 701年~770年) |
作者について | 大和国(奈良県)で生まれ、第九次遣唐使(717年)で吉備真備らと共に唐に行き、唐の高官になりました。35年間唐で過ごし、752年に唐に着いた第十二次遣唐使と一緒に唐から帰国する船に乗りましたが、船が難破して帰国できないまま唐で亡くなりました。 |
和歌の説明 | 古今集の歌で、遣唐使で唐から帰国する際の送別の宴で詠った、唐から故郷の三笠山を思いをはせた歌とされています。ただし宴の場所、遣唐使の場所などから異説もあります。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠われた故郷の奈良の三笠山をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:24】 場所: 奈良・手向山八幡宮 |
和歌 | このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに |
作者名 生年没年 | 菅原道真 [すがわらのみちざね] 承和12年~延喜3年 (西暦 845年~903年) |
作者について | 菅原道真は、漢学者、歌人で、宇多天皇に重用され、醍醐天皇の治世で右大臣にまでなりました。続日本記の編纂者の一人で、文人としても有名です。 901年に醍醐天皇の命により、菅原道真は大宰府へ左遷されました。理由は従来は藤原時平に讒言、宇多天皇と醍醐上皇の確執など色々な要因があったようです。2年後に大宰府の地で亡くなります。讒言した者達の連続死、清涼殿落雷事件とその3ケ月後の醍醐天皇の崩御の後、神として祀られました。 菅原氏と大江氏(大江千里、大江匡房、和泉式部など)は同族です。 |
和歌の説明 | 古今集の歌で、898年の秋、道真が宇多上皇のお供で吉野へ行く途中に、道祖神への供え物を忘れてきたことに気づき、その時に詠んだ和歌と言われています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠われた手向山にある八幡宮をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:17】 場所: 奈良・竜田川 |
和歌 | ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは |
作者名 生年没年 | 在原業平朝臣 [ありわらなりひらあそん] 天長2年~元慶4年 (西暦 825年~880年) |
作者について | 在原業平は、平城天皇の皇子・阿保信仰の子で、皇族から臣籍降下して在原姓になった貴族です。在原行平(歌番号16)は、在原業平の兄です。紀貫之が選んだ六歌仙の一人で、三十六歌仙の一人でした。在原業平は美男と言われ、幾つかの禁断の恋をした自由な性格で、伊勢物語のモデルと言われています。 |
和歌の説明 | 在原業平は藤原高子と恋仲と言われています。藤原高子は、9歳の清和天皇即位の際に五節の舞の舞姫に選ばれ、7年後に25歳で女御となりました。やがて後の清和天皇の中宮、皇太后となりました。伊勢物語には、藤原高子と駆け落ちをして連れ戻される話が描かれています。 この和歌は、在原業平が清和天皇の女御となった高子に招かれた時に、屏風に描かれた絵に竜田川に紅葉が流れているのを見て読んだ歌で、古今集に収められました。戻れない恋の思いを秘めた歌と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 竜田川は、奈良の平安京の南西部にある「龍田神社」の脇を流れる川で、龍田川をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:69】 場所: 奈良・三室山、龍田川 |
和歌 | 嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり |
作者名 生年没年 | 能因法師 [のういんほうし] 俗名・橘永愷 永延2年~永承6年頃 (西暦 988~1051年頃) |
作者について | 能因法師 は俗名・橘永愷です。遠江守・橘忠望の子で、兄の肥後守・橘元愷の猶子となりました。藤原長能について歌を学んでいます。良暹法師(歌番号70)とは同時代の人で、三十の歳の頃に出家しました。 能因法師の100年ほど前の時代の、伊勢(歌番号19番)の和歌の作風を慕っていたと言われています。 |
和歌の説明 | 宮中での歌合せのときにつくられたと言われています。 三室山と龍田川は離れているのですが、このふたつは歌枕として広く使われ、三室山・龍田川と聞けば、紅葉を連想するものだそうです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠われた三室山・龍田川をゆかりの地としました。 |
恭仁京の百人一首
恭仁京(くにきょう)は、奈良時代に聖武天皇が西暦740~745年の間に都としていました。「みかの原」とは恭仁京付近の場所を指します。
歌番号、場所 | 【歌番号:27】 場所: 恭仁京(くにきょう=みかの原) |
和歌 | みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ |
作者名 生年没年 | 中納言兼輔 [ちゅうなごんかねすけ] (藤原兼輔) 元慶元年~承平3年 (西暦 877~933年) |
作者について | 中納言兼輔は藤原兼輔のことで、藤原公任が三十六歌仙のひとりです。紀貫之と同時代の人です。 藤原北家良門流の家系で、紫式部(歌番号57)はひ孫にあたります。藤原兼輔は堤邸と呼ばれた鴨川近くの一条大路外の屋敷に住んでいました。ひ孫の紫式部が住み、その子供の大弐三位が育った家です。その場所は「平安京洛内の百人一首」の地図をご覧ください。 |
和歌の説明 | これは詠み人しらずの歌ですが、藤原兼輔の作とされて新古今集に収められた歌です。会ったことの無い相手に会ってみたいと思って詠ったのか、以前会ったことがある相手が恋しいと思う歌なのか、両方解釈があります。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | みかの原とは、聖武天皇によって740年~745年に一時都とされた恭仁京(くにきょう)付近のことで、平安京の北東の方向にありました。泉川は恭仁京を流れる木津川の上流の川です。 |
吉野の百人一首
百人一首の歌が詠われたのは鎌倉時代初期までですが、南北朝時代になると後醍醐天皇が吉野に行宮(あんぐう = 一時的な都)を置き、南朝と呼ばれました。
歌番号、場所 | 【歌番号:31】 場所: 吉野の里 |
和歌 | 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪 |
作者名 生年没年 | 坂上是則
[さかのうえのこれのり] 生年不明 没年 延喜8年(930年) 900年代初期に活躍した歌人です。 |
作者について | 坂上是則は、高位の貴族ではありません(従五位下)でしたが、三十六歌仙の一人となった歌人です。征夷大将軍となって蝦夷と戦った坂上田村麻呂の4代目の子孫です。 坂上是則の子供の坂上望城は「後撰和歌集」の撰者です。 |
和歌の説明 | 古今集の歌です。是則が吉野の里で明け方の、月光で明るい白雪を詠ったと言われています。大和国(現代の奈良県)の掾(じょう=国司の第三等官)を務めた頃(908~912年頃)の歌と思われます。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠われた吉野の里をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:94】 場所: 吉野の里 |
和歌 | み吉野の 山の秋風 小夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり |
作者名 生年没年 | 参議雅経
[さんぎまさつね]
(藤原(飛鳥井)雅経) 嘉応2年~永久3年 1170年~1221年 |
作者について | 参議雅経は、藤原雅経(飛鳥井雅経)のことで公卿であり歌人です。源義経と近しく、源頼朝が源義経と対立した時に、雅経は配流されました。その後許され、源頼朝の猶子となり、源実朝とも交流がありました。後鳥羽上皇に重んじられ、従三位参議にまで進みました。 雅経は定家、家隆らとともに「新古今集」を撰進したほか、蹴鞠もうまく、和歌と蹴鞠の家、飛鳥井家を興しています。 |
和歌の説明 | 新古今集の歌で、さびれた古都・吉野の里の寂しさを詠ったと言われています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠われた吉野の里をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:66】 場所: 吉野・大峯山寺 |
和歌 | もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし |
作者名 生年没年 | 前大僧正行尊
[さきのだいそうじょうぎょうそん] 天喜3年~保延元年 1055年~1135年 |
作者について | 前大僧正行尊は参議・源基平の三男で、治暦三年(1066年)・十二才のときに三井寺(園城寺)で出家しています。 諸国を旅して、歌僧としても名を知られ、白河、鳥羽、崇徳の三天皇からも信頼を得ていたほか、西行法師にも影響を与えたと伝えられています。 |
和歌の説明 | 前大僧正行尊が、大峯山寺(吉野)で修行していた時に詠んだ歌で、金葉和歌集におさめられています。 この和歌は、行尊が大峯山寺(奈良県吉野地方)で修行していた時に詠まれたものだと伝えられています。修行の日々のなか、知る人がなくても咲き誇る山桜に呼びかけた歌と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 行尊が修行中にこの和歌を詠んだという大峯山寺をゆかりの地としました。 |