難波京(大阪)とその周辺の難波江、住吉、和泉国をゆかりの地とした百人一首の歌と場所をご紹介しています。百人一首に詠われた場所、または歌の作者のゆかりの地を「ゆかりの地」としています。
下の地図は、平安時代はじめ頃を想定した地図です。難波潟の海岸線や草香江(くさかえ)は、豊臣秀吉の大阪の町の工事前、現代の大阪湾の埋立前の状態ですので、現在とは大きく変わっています。住吉神社は海(大阪湾)の近くにありました。
難波京は、飛鳥時代と奈良時代の一時期に都とされました。都の変遷の詳細はこちらをご覧ください。
- 飛鳥時代の651年に、幸徳天皇が難波京(なにわきょう)長柄豊埼宮へ遷都し、667年に天智天皇が近江国・大津京に遷都するまでの期間が都でした。
これは奈良時代の後期難波京に対して、前期難波京と呼ばれます。 - 奈良時代には平城京が都でしたが、後聖武天皇は遷都を繰り返しました。744年に難波京へと遷都を行いますが、更に甲賀京(紫香楽宮)への遷都の詔を出しました。しかし反対が多く断念し、745年に平城京へ再び遷都します。これは前期難波京に対して後期難波京と呼ばれています。
発掘調査の結果、前期難波京と後期難波京の場所は重なっていて、どちらも上町台地の上に造営されましたが、都の範囲は研究中であり確定はしていないそうです。
上記の図は、大阪歴史博物館で展示している関山洋氏案の難波京の範囲を参考にしています。難波京の南北の中心を通る朱雀大路は幅が32mあったそうです。
地図のピンク色の文字が百人一首の場所です。国名と国府(律令の地方行政の役所)を記載しています。緑色の括弧付きの地名は現在の地名です。
難波京の百人一首
和歌に出てくる「難波潟」と「難波江」は同じ意味で、淀川河口付近の海(今の大阪湾の淀川河口付近)です。
歌番号、場所 | 【歌番号:88】 場所: 難波江 |
和歌 | 難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき |
作者名 生年没年 | 皇嘉門院別当
[こうかもんいんのべっとう] 生没年不明。 1175年、1178年の歌合で歌を残しており、皇嘉門院が亡くなった1182年までに出家しました。 |
作者について | 皇嘉門院別当は、太皇太后亮 源俊隆の娘で、崇徳天皇の皇后 皇嘉門院(関白・藤原忠通の娘)に仕えて、別当という役職についていたことから「皇嘉門院別当」と呼ばれています。 |
和歌の説明 | 1178年の右大臣・藤原兼実の屋敷での歌合せで詠まれた歌で、千載集に収められました。 難波江は、難波(現在の大阪)の入り江、つまり大阪湾のことです。 「みをつくし」は 、水路の浅瀬に立てられた杭のことで「身をつくして」とかけた言葉です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 難波江をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:19】 場所: 難波潟 |
和歌 | 難波潟 短かき蘆の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや |
作者名 生年没年 | 伊勢 [いせ] 貞観17年頃~天慶元年頃 (西暦875年頃~938年頃) |
作者について | 伊勢は、藤原北家真夏流の家系で、伊勢守・藤原継蔭の娘で、三十六歌仙です。宇多天皇の中宮・温子に仕えていた頃、藤原仲平、時平兄弟と恋愛関係にありましたが、その後宇多天皇の皇子を生みました。やがて、宇多天皇の皇子・敦慶親王と結婚しました。 |
和歌の説明 | 新古今集の歌です。伊勢は藤原仲平と愛し合っていましたが、藤原仲平が心変わりしてしまい、会えないという手紙への返歌で、新古今集に収められました。 難波潟は、淀川河口の付近が干潟になっていて芦がよく茂っていました。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 難波潟をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:20】 場所: 難波潟 |
和歌 | わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ |
作者名 生年没年 | 元良親王
[もとよししんのう] 寛平2年~天慶6年 =890年~943年 |
作者について | 元良親王は、陽成天皇(歌番号13)が光孝天皇(歌番号15)に譲位した後に生まれた第一皇子で、色好みであったと伝えられています。「後撰和歌集」に多くの歌が伝えられています。 |
和歌の説明 | 後撰集の歌です。元良親王は宇多上皇の后となった藤原褒子(京極御息)と密通していました。密通が露見してしまった際に元良親王が京極御息に「もう一度お会いしたい」という思いを送ったのがこの歌です。 難波の入り江に「澪標(みをつくし)」という海のしるべの杭が立っています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 後撰集の歌です。元良親王は宇多上皇の后となった藤原褒子(京極御息)と密通していました。密通が露見してしまった際に元良親王が京極御息に「もう一度お会いしたい」という思いを送ったのがこの歌です。 難波の入り江に「澪標(みをつくし)」という海のしるべの杭が立っています。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:18】 場所: 住之江 |
和歌 | 住の江の 岸に寄る波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ |
作者名 生年没年 | 藤原敏行朝臣
[ふじわらのとしゆきあそん] 生年不明。 官職の記録は866~897年 没年は延喜7年頃(907年頃) |
作者について | 藤原敏行は、藤原南家巨勢麻呂流の家系で、若くして従四位上まで昇進した貴族で歌人です。藤原公任の選んだ三十六歌仙のひとりで、空海と並び称される書家で、京都神護寺の鐘銘に書が残っています。「宇治拾遺物語」に敏行が亡くなってから冥途の裁判で写経して供養する約束をして生き返ることができた、という話があります。しかし、その後恋や和歌に忙しく、冥途での約束を忘れて、若くして亡くなり、紀友則(歌番号33)の夢に出てきたそうです。 |
和歌の説明 | この歌は、御所で開かれた歌会で思い人への思いを詠い、古今集に収められました。女性の気持ちになって詠った歌、男が自問自答している歌という解釈があります。住の江は、摂津の国の地(現在の大阪市住之江区)で、平安時代は住吉大社の近くまでが入江(大阪湾)でした。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 住之江をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:82】 場所: 住吉神社 |
和歌 | 思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり |
作者名 生年没年 | 道因法師
[どういんほうし]
(藤原敦頼[ふじわら の あつより]) 寛冶4年~ 寿永元年頃 1090年~1182年頃 |
作者について | 道因法師の出家前の俗名は藤原敦頼で、崇徳天皇に仕えて従五位下右馬助の官職を得ました。 若いころから和歌には優れていましたが、八十歳をすぎてから出家し、延暦寺に入り大法師と呼ばれました。その後も歌会の出席していたそうです。 |
和歌の説明 | 道因法師がまだ若い頃に詠まれたものだと言われており、千載集に収められた和歌です。つれない恋の相手を悩み、辛さに耐え切れない思いを詠んだものと解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 道因法師は老齢になっても良い和歌を詠めるように住吉神社に毎月参拝していたそうですので、住吉神社をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:72】 場所: 和泉国・高師の浜 |
和歌 | 音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ |
作者名 生年没年 | 祐子内親王家紀伊
[ゆうしないしんのうけのきい] 不明 紀伊が仕えた祐子内親王の生年没年は1038年~1105年で、歌合に参加した記録は1056~1113年なので、この時期に活躍したと考えられます。 |
作者について | 祐子内親王家紀伊は、後朱雀天皇の皇女・祐子内親王に仕えた女房で、女房三十六歌仙のひとりです。多くの勅撰和歌集に選ばれ、「一宮紀伊君」「祐子内親王家紀伊」「紀伊君」などの名前で和歌が残されています。 平経方の娘で、母である祐子内親王家小弁も、祐子内親王家に出仕していました。夫(または兄は)紀伊守・重経です。 |
和歌の説明 | この歌は堀川院艶書歌合で、藤原俊忠(藤原定家(歌番号97)の祖父)と恋歌の贈答を競って詠われたもので、勝負は俊忠の勝ちでした。 高師の浜は和泉国の枕詞で、現在の堺市から高石市付近の浜です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠われた高師の浜をゆかりの地としました。白砂で松林のある景勝地であったそうです。 |