近江国(滋賀県)付近と、山陰地方(若狭、丹後、田島、因幡、出雲)、隠岐島をゆかりの地とした百人一首の歌と、百人一首の場所をご紹介します。
百人一首の歌に歌われた場所、または作者のゆかりの場所をご案内しています。
百人一首の全和歌の歌番号順の一覧はこちらをご覧ください。
地図のピンク色の文字が百人一首の場所です。国名と国府(律令の地方行政の役所)を記載しています。緑色の括弧付きの地名は現在の地名です。
近江、若狭の百人一首
歌番号、場所 | 【歌番号:22】 場所: 押立神社 (琵琶湖東) |
和歌 | 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ |
作者名 生年没年 | 文屋康秀 [ぶんやのやすひで] 生年没年不明。 800年代後半に活躍した歌人です。 |
作者について | 文屋康秀の生涯は不明ですが、歌人であり、正六位以下の下級役人であったようです。小野小町(歌番号9)との贈答歌が残されています。 文屋朝康(歌番号37)は、文屋康秀の息子です。 |
和歌の説明 | 是貞親王(淳和天皇の皇子)の歌合で詠まれた歌で、古今集に収められました。 漢字を分ける言葉遊びの和歌が人気となった時代に「嵐」という漢字を分けて「山」と「風」に分けて詠ったと言われています。 この歌は、息子の文屋朝康(歌番号37)の作であるという説が通説となっているそうです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 近江・押立神社(現在の滋賀県東近江市)には、文屋氏の氏神とした押立大明神を祀っており、押立大神社をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:37】 場所: 押立神社 (琵琶湖東) |
和歌 | 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける |
作者名 生年没年 | 文屋朝康
[ぶんやのあさやす] 生年没年不明。 892年~902年の官職叙任記録があり、宇多天皇、醍醐天皇の頃歌人として活躍しました。 |
作者について | 文屋朝康は是貞親王家歌合などで歌を残している歌人で、最高位が従六位の下官人です。 六歌仙に選ばれた文屋康秀(歌番号22)は、文屋朝康の父です。 |
和歌の説明 | 葉の上の白露が秋風に吹かれて、玉のように飛び散るさまを詠った後撰集の歌です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 近江・押立神社(現在の滋賀県東近江市)には、文屋氏が氏神とした押立大明神を祀っており、ここをゆかりの地としています。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:51】 場所: 伊吹山 |
和歌 | かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを |
作者名 生年没年 | 藤原実方朝臣 [ふじわらのさねかたあそん] 延喜21年~正暦2年 (西暦921年~991年) |
作者について | 藤原実方朝臣は公家で歌人であり、中古三十六歌仙のひとりです。貞信公(歌番号26)の曾孫にあたる人物です。 東山の桜狩りの際に、雨の日の桜の歌について藤原行成と口論になり、実方が行成の烏帽子を投げ捨てるという無礼をはたらきました。 それを見た一条天皇が、実方を陸奥守に任ぜられ、その地で亡くなったと伝えられていますが、口論と陸奥守に任じられたことは関係はないという説もあります。 |
和歌の説明 | 藤原実方は清少納言の恋人でしたが、彼女に負けないほどの和歌を詠みたいと思い、 この和歌をつくったと言われています。「さしも草」はヨモギのことです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 伊吹山のヨモギは伊吹山は下野(現・岐阜県)、近江(現・滋賀県)のふたつの説があります。ヨモギは薬草にも使われ、平安時代頃には桃の節句によもぎ餅に使われるようになりました。 京の都では都に近い場所のヨモギがより多く使われたでしょうから、近江の方の伊吹山の方をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:92】 場所: 若狭湾・沖の石 |
和歌 | わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もな |
作者名 生年没年 | 二条院讃岐 [にじょういんのさぬき] 永治元年頃 ~建保5年頃(西暦1141年頃~1217年頃) |
作者について | 二条院讃岐は、二条天皇に仕えた歌人で、源頼政の娘です。式子内親王と並ぶ有名な歌人でした。 内裏に長く仕えたという説と、九条良経(百人一首歌番号91)の父である九条兼実の妻となったという説があります。 二条院讃岐の父・源頼政は以仁王とともに平氏討伐に立ち上がり戦死しました。 |
和歌の説明 | 潮がひいても見えない沖の石のように、私の袖は人には見られていなくても、悲しい恋の涙で濡れている、と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 「沖の石」は歌枕であるという解釈もありますが、「沖の石」と呼ばれる石は、陸奥・多賀城近くと、若狭湾(現在の福井県小浜市付近)にあり、琵琶湖やその他の地にもあるそうです。 陸奥・多賀城近く(現在の宮城県・多賀城市)にある「沖の石」の方が有名ですが、こちらは陸にある奇岩であり (現在は町の中にあります)、海の波に濡れるような岩ではありません。 二条院讃岐の父・源頼政が若狭国に所領をもっており、二条院讃岐の居所が近くにありました。沖の石が歌枕でないならば、歌にふさわしい若狭湾にある沖の石をゆかりの地としました。 |
山陰の百人一首
歌番号、場所 | 【歌番号:60】 場所: 大江山、生野、天橋立 |
和歌 | 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立 |
作者名 生年没年 | 小式部内侍 [こしきぶのないし] 長保元年頃~万寿2年 (西暦 999年頃~1025年) |
作者について | 小式部内侍は、橘道貞と和泉式部(歌番号56)の娘で、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の娘)に仕えた女流歌人です。 |
和歌の説明 | 母の和泉式部が夫の任地である丹後の国にいた時に、今日の都では小式部内侍 が歌合せに招かれました。藤原定頼(歌番号64)(藤原公任の長男)が「母親に代作を頼んだ和歌は届きましたか?」とからかったので、その場で即興で詠って定頼に意趣返しをしたものです。大江山、生野を通って天橋立の近くにある丹後の国府までは遠く、行ったことも無く、文も来ていない、という意味で、歌の中に三つの場所を織り込んだものです。小式部内侍の実力を知らしめた歌でした。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 丹後の国府(母の和泉式部の夫の任地)の場所は複数説ありますが、天橋立(あまのはしだて)の近くにあったという説が有力です。 「 大江山」は、丹後国の酒呑童子で有名な大江山と、京の都に近い丹波国桑田郡(現在の京都府西北部)のどちらの山かは両方の説があり、酒呑童子の伝説も両方の大江山にあります。当時、平安京から丹後国にいくために西国街道を通って大江山、生野(現在の京都府福知山市字生野)を通り、丹波と丹後の国境近くにある大江山を遠くに見ながら丹後の国に入りました。天の橋立は、丹後国(現在京都府宮津市)にある名勝地です。 伝説によれば、大江山の酒吞童子は延喜の頃(延喜年間は902年~923年)から住んでいたそうで、源頼光、渡辺綱、佐田金時らによる酒呑童子の退治は、正暦元年(990年)に行われたそうです。群盗(集団での盗賊)が跋扈した時代の話です。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:46】 場所: 丹後の由良 (由良川河口) |
和歌 | 由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな |
作者名 生年没年 | 曽禰好忠
[そねのよしただ] 生年没年不明。 985年の歌合に参加しようとした記録があり、900年代後半頃に活躍しました。 |
作者について | 曽禰好忠は平安時代中期の歌人で、官位官職には恵まれませんでした。官位は六位で、長い間丹後国の丹後掾(たんごのじょう)(掾は、守、介の次の3番目の官位)でした。変わり者というエピソードが残されていますが、百首の和歌をまとめた百首歌の形式を始めた人であり、斬新な歌風と言われ、「拾遺和歌集」「新古今和歌集」などに和歌が残されています。 |
和歌の説明 | 新古今集に収められた歌です。この歌は、由良の河口で舵が無くなって漂う舟のように、自分の恋の行方がわからない、と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 「由良」は、紀州(和歌山県)の由良港を指すという説と、丹後の由良を指すという説があります。曽禰好忠の任地・丹後(現在の京都府・丹後半島付近)の由良(由良川河口の由良海岸あたり)(現在の奈具海岸あたり)を詠われた場所としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:16】 場所: 因幡・稲葉山 |
和歌 | 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む |
作者名 生年没年 | 中納言行平
(在原行平)
[ありわらゆきひら] 仁9年~寛平5年 818年~893年 |
作者について | 在原行平は、平城天皇の皇子・阿保信王の子で、皇族から臣籍降下して在原姓になった貴族です。地方、中央で官職を勤めました。 在原業平(歌番号17)は、在原行平の弟にあたります。 在原行平は文徳天皇のとき須磨に蟄居を余儀なくされ、源氏物語の光る源氏のモデルの一人とされています。 行平が須磨の地に下った時の和歌は源氏物語にも引用されています。須磨では二人の恋人、松風と村雨を残して都へと去ったという松風村雨伝説を残しました。 行平は都に戻ってからは業績を残し、中納言になりました。 |
和歌の説明 | これは古今集の歌で、斉衡2年(855年)に因幡国(現在の鳥取県の東半分側)の国司に任じられた時に詠った、都の恋人に送った惜別の歌です。在原行平は斉衡4年(857年)に帰京します。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 「いなばの山」は因幡国の稲葉山、または稲葉国の山のことです。稲葉山は、因幡国府の北東側にあり、ここをゆかりの地としました。 |