九州と隠岐島をゆかりの地とした百人一首の歌と、百人一首の場所をご紹介します。
百人一首の歌に歌われた場所、または作者のゆかりの場所をご案内しています。

地図のピンク色の文字が百人一首の場所です。国名と国府(律令の地方行政の役所)を記載しています。緑色の括弧付きの地名は現在の地名です。

九州の百人一首

九州の百人一首図
九州の百人一首図
歌番号、場所【歌番号:48】  場所: 現在の宮崎県高鍋町
和歌風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな
作者名
生年没年
源重之 [みなもとのしげゆき]
生年不明~長保2年 生年不明~1000年 村上天皇の治世の967年からの官暦が残っています。
作者について源重之は清和天皇の曾孫です。藤原公任が選んだ三十六歌仙のひとりで、「拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に多くの和歌が残されています。 源重之は左近将監、相模権守(神奈川県)、信濃守(長野県)、日向守(宮崎県)、肥後守(熊本件)、筑前守(福岡県)の陸奥守(宮城県)まで、全国広くの国守(地方官)に任じられ、長保二年(1000年)、任地先の陸奥(東北地方・国府は宮城県)で亡くなりました。
和歌の説明詩花集の歌で、恋心を岩を打つ波に例えて激しい恋心を表していると解されています。
この歌は、源重之が正徳2年から長徳元年の間頃(991~995年の間頃)に、国司として日向国に赴任した頃に詠った歌ではないかという説があります。
和歌、歌人ゆかりの地源重之は日向国では、この歌のように砕ける波に自分の思いを託した別の歌も詠いました。「しら浪のよりくる糸を をにすげて 風にしらぶる 琴弾きの松」日向国財部(たからべ)(現在の宮崎県高鍋市)には、この歌の江戸時代に作られた歌碑があり、この地をゆかりの地としました。
【歌番号:48】 源重之

隠岐の百人一首

隠岐島へ至る路
隠岐島へ至る路
歌番号、場所【歌番号:11】  場所: 隠岐島
和歌わたの原 八十島かけて 漕き出でぬと 人には告げよ あまのつりぶね
作者名
生年没年
参議篁 「さんぎたかむら] (小野篁)
延暦21年~仁寿2年 802年~853年
作者について小野篁は公卿で歌人です。小野篁は遣唐使の副使となりましたが、大使である藤原常嗣と争いやむを得ず乗船しませんでした。遣唐使を批判した漢詩が嵯峨上皇の怒りをかってしまい、承和5年(838年)隠岐島に流罪になりました。その後、承和7年(840年)赦免されて都に戻り参議まで昇進しました。才気あふれる逸話が残っています。 冥界の閻魔庁でも働いていたとう伝説が残されています。
和歌の説明古今集の歌で、隠岐島へ流罪となって送られる舟が大海原に漕ぎ出す時に、漁夫の船に都人に伝えてくれと詠った歌と言われています。
和歌、歌人ゆかりの地小野篁が通った道の記録はありませんが、当時は平安京の都から隠岐島へは朝廷が整備した山陰道を通り、出雲国・千酌(ちくみ)の湊(現在の島根県美保関町・千酌港)から、隠岐路と呼ばれる航路を北上しました。遠くの隠岐島や、湊から海原に出ると見えてくる島根半島沿いの小さな多くの島々を見ながら詠ったのではないかと想像します。
【歌番号:11】