摂津国、播磨国の山陽道沿いをゆかりの地とした百人一首の歌と場所をご紹介します。
百人一首の歌に歌われた場所、または作者のゆかりの場所を「ゆかりの地」としています。
地図のピンク色の文字が百人一首の場所です。国名と国府(律令の地方行政の役所)を記載しています。緑色の括弧付きの地名は現在の地名です。
山陽道の摂津国の百人一首
摂津国の山陽道沿いにある百人一首のゆかりの地です。
歌番号、場所 | 【歌番号:58】 場所: 有馬山、猪名の笹原 |
和歌 | 有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする |
作者名 生年没年 | 大弐三位 [だいにのさんみ] (藤原賢子[ふじわらけんし]) 長保元年頃~永保2年頃 (西暦999年頃~1082年頃) |
作者について | 藤原賢子(大弐三位)は、紫式部の娘です。母・紫式部が亡くなった後に、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の娘)に仕えました。藤原道兼(藤原道長の兄)の次男・兼隆と結婚しましたが未亡人となりました。正三位大宰大弐 高階成章と再婚したので大弐三位と呼ばれました。 |
和歌の説明 | 有馬山は、摂津国(兵庫県)にある有馬温泉近くの山です。猪名の笹原は、猪名川の東、摂津国の有馬山の東に離れたあたり(現在の伊丹市)に広がっていた笹の草原です。猪名の笹原が風にふかれて音をたてるのを聞き、そうよそうよと言っている音のようにあなたを忘れられるはずがないと解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠まれた有馬山、猪名の笹原をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:78】 場所: 須磨・関森神社 |
和歌 | 淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守 |
作者名 生年没年 | 源兼昌 [みなもとのかねまさ] 生年没年不明。 |
作者について | 源兼昌は、宇多天皇の皇子・敦実親王六代の孫にあたりますが、従五位下皇后宮大進まで昇進し、後に出家しました。 「勅撰集」には7首が残されていて、藤原忠通が催した歌会にも、しばしば出席しています。 |
和歌の説明 | この和歌は金葉集の歌で、源兼昌が須磨の関(現在の兵庫県神戸市須磨区付近)あたりを旅した時に、千鳥の声を聞いて寂しげな風情を詠ったものと言われています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 律令で定められた播磨国と摂津国の間に関所がありました。その関所は摂津国側の須磨の地にあり、関所の守人が「須磨の関守」です。現在の 神戸市関森稲荷神社 (須磨区関守稲荷町1丁目) に兼昌のこの歌の歌碑があります。 |
山陽道の播磨国の百人一首
播磨国の山陽道沿いにある百人一首のゆかりの地です。
歌番号、場所 | 【歌番号:3】 場所: 明石・柿本神社 |
和歌 | あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む |
作者名 生年没年 | 柿本人麻呂 [かきのもとのひとまろ] 生年没年不明。持統天皇と文武天皇に仕えた歌人なので、天王在位期間の686年~701年頃に活躍したものと考えられます |
作者について | 持統天皇と文武天皇に仕えた当時の宮廷歌人で、三十六歌仙人の一人です。飛鳥時代当時の代表的歌人です。下級官人であったと言われています。 |
和歌の説明 | この歌が詠われた時期は不明で、柿本人麻呂が天皇に仕える女性を思って詠ったのがこの歌です。この頃の都は、持統天皇八年(694年)に藤原京に遷都するまでは飛鳥京でした。 柿本人麿ゆかりの地として、柿本神社が明石にあります。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 柿本人麿ゆかりの地として、柿本神社が明石にあります。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:97】 場所: 淡路島・松帆の浦 |
和歌 | 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ |
作者名 生年没年 | 権中納言定家 [ごんちゅうなごんさだいえ] (藤原定家) 応保2年~仁治2年 (西暦 1162年~1241年) |
作者について | 藤原定家は、歌道家である藤原北家御氏左家の家系で、新古今和歌集、新勅撰和歌集を撰出した歌道の宗匠です。 皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)(歌番号83)は藤原定家の父で、寂蓮法師(藤原定長)(歌番号83)は兄です。 後鳥羽上皇に和歌の才を認められていましたが、和歌に関して上皇の不興を買い蟄居を命じられ、歌道家没落の危機に瀕します。やがて承久の乱で後鳥羽上皇が配流されて復権し、鎌倉幕府と権力中枢の西園寺家との関係の深さもあって正二位中納言にまで昇進しました。 百人一首は藤原定家の作と言われていますが、定家の作とするには矛盾や疑問が解決されていません。後世の人間が、藤原定家が作った「百人秀歌」を元にして和歌を入れ替え、順番も入れ替えて「百人一首」を作成したという説の方が矛盾が無く合理的と思えます。 |
和歌の説明 | 定家の晩年の歌で、定家が編纂した新勅撰集に収めた歌です。「松帆の浦」は淡路島の北端の浜辺で、「藻塩」は、乾かした海藻を焼いて水にとかして作成する塩です。 来ない人を待ち焦がれる思いを、藻塩を焼く様子に重ねて詠ったものです。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 歌に詠われた淡路島の「松帆の浦」をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:34】 場所: 播磨国・高砂神社 |
和歌 | 誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに |
作者名 生年没年 | 藤原興風
[ふじわらのおきかぜ] 生年没年不明。900年~914年の官職叙任記録がありますので、この前後頃活躍した歌人です。 |
作者について | 藤原興風は藤原浜成のひ孫にあたり、藤原公任が選んだ三十六歌仙のひとりです。 藤原興風は紀貫之、 凡河内躬恒らと共に優れた歌人で、日本最古の歌論である『歌経標識』を残しています。 |
和歌の説明 | 古今集の歌です。長生きをして友を一人一人と亡くし、語りあう人がいなくなっていく悲しみを詠ったものと伝えられています。高砂の松は、播磨国(現在の兵庫県高砂市)の高砂神社の相生の松で、長寿の象徴です。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 播磨国の高砂をゆかりの地としました。 |
歌番号、場所 | 【歌番号:29】 場所: 播磨国・広峯神社 |
和歌 | 心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花 |
作者名 生年没年 | 凡河内躬恒 [おおしこうちのみつね] 貞観元年頃~延長3年 (西暦 859年頃~925年) |
作者について | 凡河内躬恒は、宇多天皇(在位887~897年)、醍醐天皇(在位897~930年)の頃の歌人です。歌人として有名でしたが、官位が低い官人でした。 古今和歌集(延喜5年=905年奏上)の撰者の一人となりました。 |
和歌の説明 | 古今集の歌です。初霜で真っ白になった庭で、白菊の花も霜も区別がつかなくなったので、当て推量で白菊を折るならば折ってみよう、と解されています。 |
和歌、歌人ゆかりの地 | 広峯神社(姫路・広峰山)の神官広峯氏は、広峯氏系図によると凡河内躬恒の末裔です。凡河内躬恒のゆかりの地を広峯神社としています。 |