日本の旧暦(太陰太陽暦)の年号を西暦に対応させるのは、実は単純ではありません。旧暦の11月から12月頃になると西暦(グレゴリオ暦)では翌年に変わってしまうため、旧暦の1年は、西暦では基本的に2年にまたがります。ここでは、近世・江戸時代の西暦の年の変わり目を含めた、正しい和暦西暦対応表を掲載しています。正確には慶長元年元旦(=西暦1596年1月30日)から旧暦の最後の年である明治5年12月2日(=西暦1872年12月31日)までを掲載しています。 和暦と西暦の日付のずれの解説こちらをご覧ください。

和暦西暦対照表

  • 元号 
    • 元号が使用され始めたのは大化元年(西暦645年)からですが、その後使わない時期もあり、連続して必ず使われるようになったのは、大宝元年(701年)からです。元号を使用しない場合は、元号の代わりに在位された天皇の名を冠して、「推古天皇元年」「推古天皇二年」のように記録されました。
    • 大化、白雉の元号のあとは、元号が使用されなくなります。斉明天皇元年(西暦655年)~天武天皇十五年(西暦685年)は元号がありません。
    • 朱鳥元年(西暦685年)に1年だけ「朱鳥」の元号が使われました。
    • 天武天皇が崩御された翌年の、持統元年(687年)~文武天皇5年(701年)までは元号が使用されませんでした。
    • 大宝元年(701年)からは元号が常に使われるようになり、現在に至ります。
    • 一つの年に、3~4個の元号がある場合があります。
      • 西暦749年は天平21年、天平感宝元年、天平勝宝元年の3つの元号が存在します。聖武天皇が天平から天平感宝に改元しましたが、その3か月後に崩御され、天平勝宝となりました。
      • 南北朝時代は、南朝と北朝がそれぞれが改元を行ったので、どちらか片方が改元すると3個存在しました。
        南朝と北朝両方が同じ年に改元した3回の年(西暦1375年、1381、年 1384年)には4個の元号が存在しました。
  • 改元日と元号の切替方法
    「改元の詔」が出された日が「改元日」ですが、元号が切り替わる日と改元日は必ずしも一致しません。
    前の元号から次の元号に切り替わる方法は以下の表んもように5通りあります。

    例えば慶応から明治への改元は立年改元で、10月2日に改元されました。そのため1月1日(西暦1868年1月25日)~10月2日までは慶應4年ですが、
    同じ年の1月1日~年末 (=12月30日、旧暦の大の月なので30日が晦日) は明治元年なので、改元日までは二つの元号があることになります。

    日本全国に改元が伝わるまで数カ月かかる時代は、当然ながら改元されても前の元号を使用している場合があります。
    公式な通知が無いと新しい元号を使ってはいけない場合もありました。
    歴史書によっても改元の表記が異なる場合がありますので、以下は記録上の一般原則を記載しています。
改元方法元号の切替日適用された年
越年改元前の元号は、改元日の年の年末まで使用。
新元号は、翌年の元旦から使用開始。
日本書記では、日本書記が扱っている持統天皇元年(687年)までは
越年改元の形式で表記されている。(そもそも元号が存在せず、
「推古天皇元年」のように天皇の名前を年に冠していた時期が
大部分であった。) 前の天皇に配慮して翌年に元号を変更した
と言われている。
その他の歴史書での表記が異なる場合がある。

最初の元号である白雉元年(650年)以降の元号が無い時期
(斉明天皇元年(655年)~文武元年(697年))は、従来通り
越年改元の形式で記録されている。
立年改元前の元号は、改元日が最終日
新元号は、改元の年の元旦に戻って使用開始日とする
元旦から改元日まで2つの元号が存在する。
白雉元年(650年)から文武元年(697年)までの期間で、
元号がある場合は立年改元 (注:日本書記とは異なる)

大宝元年(701年)以降は継続的に元号が使用された。
江戸時代以前の朝廷に元号切替施行をしていた時代は
立年改元であった。

江戸時代は改元の詔は朝廷が出すが、元号切替施行は江戸幕府が行った。

明治元年(1868年)は立年改元であった。
即日改元前の元号は、改元日が最終日
新元号は、改元日から使用開始初日
改元の日だけ2つの元号が存在する。
江戸時代(慶応元年まで)は、朝廷が出した改元の詔に対して、
江戸幕府が元号切替施行を行い、即日改元。
歴史書によって改元の表記は一定しない。

大正元年(明治から大正への改元)
昭和元年(大正から昭和への改元)
翌日改元前の元号は、改元日が最終日
新元号は、改元日から使用開始初日
平成元年 (昭和から平成への改元)
翌月改元前の元号は、改元日の月末が最終日
新元号は、次の月から使用開始
令和元年 (平成から令和への改元)
元号の切替方法
  • 古代から平安時代歴史書
    • 古事記  : 和銅5年(712年)に編纂して元明天皇に献上された最古の歴史書。神代から推古天皇第(~628年)までを扱っています。
    • 日本書記 : 養老4年(720年)に成立した歴史書。神代から持統天皇代(~697年)までを扱っています。
    • 続日本記 : 菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した歴史書。文武天皇元年(697年)から延暦10年(791年)、桓武天皇の時代を扱っています。
  • 閏年、閏月 
    • 現在では「閏年」と言えば2月に閏日(2月29日)がある年のことですが、旧暦では「閏月」がある年が閏年になります。
    • 旧暦には、2~3年に一度閏月があり、1年が13か月になります。例えば「閏4月」は4月の次の月で、「閏11月」は11月の次の月に入ります。年によって何月の次に入るかは異なります。
  • 年間日数
    • 旧暦(太陰太陽暦)では年間の日数は353日~385日の範囲で変動します。閏月がある年は月は13か月になり、29日の月が何回あるか、30日の月が何回あるかによって、年間日数が異なってきます。
    • 日本暦実原典 (参考資料1)によれば、儀鳳暦が使われ始めたと推定される持統天皇6年(692年)から明治5年(旧暦最後の年)までに、実際に暦に出現した年間日数は以下の7通りです。
      • 平年(閏月が無い年) は、353日、354日、355日、356日の4通り。
      • 閏年(閏月が有る年)は、383日、384年、385年の3通り。合わせて7通りです。
      • 356日という年は計算上では存在しないですが、当時の暦の人為的調整で発生した年で、西暦851年と西暦891年にだけ存在します。
        明治5年は本来の暦では12月29日までの年間355日ですが、明治6年の太陽暦への改暦調整のために12月2日を最終日として打ち切ったため、年間327日に調整されました。
  • 西暦
    • 4年に一度閏年を設ける暦がユリウス暦で、1582年10月4日まで使用されました。その翌日のユリウス暦1582年10月5日がグレゴリオ暦1582年10月15日になります。
      ユリウス暦の4年に1度の閏年では1年に平均日数はは365.25日になり、太陽の公転周期に基づく正確な1年(太陽年)365.241897日との誤差が大きくなります。
      そのため、グレゴリオ暦では4年に1度の閏年というルールに、100年に1度は閏年ではなく、400年に1度は閏年というルールを追加して、平均の1年を365.2425日にしています。
    • ユリウス暦からグレゴリオ暦への移行は国によって異なり、日本では明治6年(1873年)1月1日から移行しました。
    • 日本の歴史を西暦で表す場合、原則としては1582年10月4日までがユリウス暦の日付、翌日からはグレゴリオ暦で記載されます。1582年は日本では天正10年、本能寺の変で織田信長が亡くなった年です。
    • グレゴリオ暦が導入される以前の日付をグレゴリオ暦で遡る場合、グレゴリオ暦のルールで機械的に遡って日付を表記することができます。これをProleptic Gregorian Calendar (仮想的グレゴリオ暦、先発的グレゴリオ暦、予測的グレゴリオ暦 などと訳されます)と呼びます。Proleptic Gregorian Calendarで遡ると紀元1年1月1日がユリウス暦の紀元1年1月3日になります。
    • グレゴリオ暦も3000年間では、太陽年と約0.84日の差が生じます。グレゴリオ暦は1582年から使用されはじめたので、その3000年後の西暦4582年頃までには補正が検討されるでしょう。
  • 曜日 
    • 明治政府が「週」を採用したのは明治9年4月からですが、日本への伝来は古く、空海が中国から大同元年(806年)に持ち帰った密教教典の「宿曜経」で伝えたとされています。
    • 日本では、七曜(曜日)は平安時代には密教、および貴族社会で宿曜占星術に使用されていました。藤原道長の日記である「御堂関白記」(日記の記録は西暦998~1021年)には七曜(曜日)が記録されていてます。御堂関白記には現代と同じ「月、火、水、木、金、土、日」と書かれており、現代の曜日と連続した曜日が使用されています。
      その当時の七曜(曜日)は、明治時代から広く使われ始めた現在の六曜(先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口)のような扱いだったのでしょう。
    • 日本では七曜の記載方法は一定ではなく、戦国時代頃から明暦末頃までは関東の暦は曜日が4日づれていました。
  • 日本の暦の採用
    • 日本書記の記録から推古天皇の時代に中国から元嘉暦が伝えられたと考えられています。持統天皇4年11月11日の天皇の勅により、中国から伝えられた元嘉暦と儀鳳暦を併用することとなり、持統天皇6年(692年)から正式採用されました。文武天皇元年(697年)から儀鳳暦のみを本格的に使用しました。
    • 儀鳳暦は唐ではユリウス暦665年から使われていた暦法で「定朔」と呼ばれる実際の月齢に基づく暦です。
    • 元嘉暦は「平朔」と呼ばれる月の満ち欠けの平均周期で計算した暦で、実際の月齢とは異なります。
    • 日本では儀鳳暦、およびそれ以降の暦は全て実際の月齢で計算する「定朔」の暦法が使用されます。
  • 時代区分 : 時代区分には様々な説、様々な観点があり、統一された区分方法はありません。ここでは便宜上、以下の区分としています。
時代年代
(西暦年は旧暦元旦時点の年)
説明
飛鳥大化元年(645年)~和銅2年(709年)飛鳥京に都があった時代
奈良和銅3年(710年)~延暦12年(793年)奈良・平城京から長岡京に都があった時代。
途中に難波京、藤原京、恭仁京、紫香楽宮
に遷都した時期があった。
平安前期延暦13年(794年)~仁和3年(885年)平安京に都があった天皇に政治の実権があった時代
平安中期仁和4年(886年)~応徳2年(1085年)平安京に都があった摂関政治の時代。
摂関政治開始の時期は諸説ありますが、宇多天皇が即位し、
藤原基経が関白となった年を始まりとしています。
平安後期応徳3年(1086年)

寿永3年(平氏の元号)
=治承8年(源氏の元号)
=元暦元年(源氏の元号)(1184年)
平安京に都があった院政の時代。
院政開始の時期は諸説ありますが、白河上皇が
院政を始めた年を、院政の始まりとしています。
終わりは壇ノ浦の合戦の前年までとしています。
鎌倉
寿永4年(平氏の元号)
元暦2年(源氏の元号)
文治元年(源氏の元号)(1185年)

建武2年(1335年)
源氏および執権北条氏の時代。
壇ノ浦の合戦で源氏が勝利、平家が滅亡した年から
南北朝に分かれるまでを便宜上鎌倉時代としています。
南北朝建武3年(1335年)
=延元元年(南朝の元号)

明徳3年(北朝の元号)
=元中9年(南朝の元号)(1392年)
光明天王が北朝を開き、
北朝川の足利尊氏室町幕府を開き、
後醍醐天皇が南朝を開いた年から、
南北朝合一された年まで。
室町明徳4年(1336年)~
文正2年=文正1年(1466年)
南北朝合一の翌年から応仁の乱の前年まで。
室町(戦国)文正2年=応仁元年(1466年)~
元亀3年(1572年)
応仁の乱により全国的な戦国時代が始まってから
室町幕府が滅亡する前年まで
安土桃山元亀4年=天正元年(1573年)~
慶長7年(1602年)
室町幕府が滅亡した年から
徳川家康が征夷大将軍になる前年まで
江戸慶長8年(1603年)~
慶応3年(1867年)
江戸幕府、江戸時代の開始は諸説ありますが、
徳川家康が征夷大将軍になってから
大政奉還の年までを江戸時代としています。
近現代慶応4年=明治元年(1868年)~明治元年以降
( 旧暦は明治5年12月2日まで。
翌日から新暦となり明治6年1月1日)

参考文献

日本暦実原典 : 内田正男編著 雄山閣出版