新吉原の地図上に、吉原細見(吉原遊郭の案内書)に掲載されている全ての妓楼(遊女屋)を書いて、町の様子を復元しました。寛政7年(1795年)の蔦屋重三郎版、安政7年(1860年)の玉屋山三郎版を参照して2枚の新吉原地図を掲載しています。下記の地図をクリックすると拡大地図を参照できます。
妓楼の格付けは、吉原細見の合印(あいじるし)の格付け記号に従っています。妓楼の通りの並び順は吉原細見の細見の通りですが、位置と大きさは正確な記載が無いので、妓楼の格から間口を推測して位置を書いています。近い年度に作られた地図や鳥瞰図がある場合は、その図の地理的歪みを補正して参考にしています。

立川博章氏の鳥瞰図「浅草新吉原図」はこちらです。

寛政7年
(1795年)版

右図をクリックすると拡大地図を表示します。

耕書堂・蔦屋重三郎版の新吉原細見図です。初代蔦屋重三郎が発行した最後の版です。
吉原もかつては大名、旗本、大商人といった大尽遊びが中心でしたが、徐々に大衆化していきました。この頃は太夫と呼ばれる最高級の遊女はいなくなり、太夫、格子の次の「よび出し」の格の遊女が一番高級な遊女となりました。

時代としては、天明の大飢饉後に打ちこわしが多発し、老中・松平定信による寛政の改革が行われた頃でした。

新吉原細見図 寛政七年(1795年)
新吉原細見図 寛政七年(1795年)

安政7年
(1860年)版

右図をクリックすると拡大地図を表示します。

新吉原惣名主の玉屋山三郎版の新吉原細見図です。
幕府が開国の是非にゆれ、安政の大獄の後、安政7年に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された頃の地図です。

嘉永元年(1848年)に蔦屋重三郎が四代目で廃絶した後は、玉屋山三郎が吉原細見を独占して発行しました。

新吉原細見図1860年
新吉原細見図 安政7年(1860年)

吉原細見について
吉原細見は、大きな一枚で地図のように妓楼の場所が見られるものと、町の通り毎に妓楼を書いた冊子型のものがありました。地図型の一枚物の吉原細見は大きく広げる必要があったのですが、後者の折りたんだまま持って歩ける冊子型の方が人気があって多く作られました。地理的にわかりやすいのは地図形式のもので、このサイトでは一枚型の地図形式の吉原細見を現代風に復元していることになります。

江戸の町は10年~20年位の間隔で大火事が何度も発生しましたが、そのたびに逞しく復興しました。新吉原も何度全焼しても復興しましたが、大火事のたびに店が変わったり、場所が変わったりしました。火事の後の仮宅(吉原の外での仮営業)で焼け太りした店もある一方、復興できなかった店や、その他の商売の都合で人の手に渡った店もあったでしょう。華やかな江戸文化であるとともに、苦界に身を沈めざるを得なかった遊女達、大火や世の荒波に負けずに生きた人々の様子の移り変わりが残せたらと思います。

新吉原遊郭の場所

新吉原は浅草寺の北、日本堤の土手の南側にありました。大川(隅田川の西)から山谷堀沿いに日本堤の土手を歩くと、八十町(約900m)で新吉原に入る五十間道の入口にある見返り柳に着きました。さらに日本堤を北西に進むと三之輪(三ノ輪、蓑輪、箕輪)に着きます。新吉原の東側には、浅草寺の裏手に続く「田んぼ道」があります。もう少し東には「馬道」(現在の馬道通り)があり浅草寺の東側に出ます。
新吉原へは猪牙船で大川(隅田川)を登るルートもありました。下記の地図の大川の南橋に「首尾の松」があり、遊客が首尾よくいくことを願ったと言います。大川を北に上がると駒形堂が見えます。駒形は、吉原の二代目高尾大夫の句「君は今 駒形あたり 時鳥(ほととぎす)」と詠まれました。安永3年(1774年)には吾妻橋が作られ、橋の下をくぐるようになりました。

新吉原の周辺図
新吉原の周辺図

新吉原は、大門から水戸尻まで 京間135間( 258m) (図の縦方向)、横幅(図の横方向)京間 180間 (344m)の大きさの町でした。(京間1間=1.91mとして計算しています)
日本堤の土手から、大門(おおもん)を通って新吉原に入りました。

新吉原概要図
新吉原概要図

吉原の歴史と吉原細見で見る変遷

以下については、後述の原典・資料を参照しています。吉原細見は、江戸東京博物館、台東区立図書館、国立国会図書館のデジタル化した吉原細見を参照しています。吉原細見を時系列で定量的に見て吉原の変遷を見る観点は、後述の「原典・参考資料」にあげた山城由紀子著の論文『「吉原細見」の研究 -元禄から寛文期まで-』を参考にさせて頂いています。

  • 徳川の平和な世となった江戸初期には江戸の町は急速に発展し、いわば首都移転バブルの好景気にわいていました。多くの人が江戸に流入し、男女比率は男が圧倒的に多くなります。遊女屋も江戸内に増えて点在していました。慶長17年(1611年)、庄司甚右衛門が同業者代表として、遊郭を一か所にまとめた町を作ることを幕府に願い出ました。
  • 元和3年(1617年)に、願い出てから5年後になって葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊郭を作ることが許されたのが吉原の町の始まりです。庄司甚右衛門が吉原の惣名主となりました。庄司甚右衛門は、西田屋の妓楼主でもありました。吉原は江戸で唯一公認された公娼として独占営業権を得て、幕府は風紀取締りを吉原に任せて冥加金が入りました。江戸の吉原以外の遊里は全て非公認の場所となり、後には「岡場所」と呼ばれ、時折取締りの対象となりました。
  • 遊女の評判記が色々出版されていましたが、寛永19年(1642年)に評判記に妓楼(遊女屋)の場所を加えた「吾妻物語」が出版され、これがのちの吉原細見の始まりになります。この頃の吉原は、太夫、格子といった教養と芸妓を持った高級遊女が多く、大名、旗本、豪商を中心とした大尽遊びが中心でした。
  • 慶安2年(1649)、二代目庄司甚右衛門が惣名主を返上しました。その後、大三浦屋の楼主・三浦屋四郎左衛門が惣名主となりました。
  • 明暦2年(1656年)、吉原が御用地であったために、町奉行から移転するように命じられました。
  • 明暦3年(1657年)正月に江戸中が焼けた大火事(明暦の大火)があり、吉原も全焼しました。吉原は日本堤の南(浅草の北、現在の浅草千束)に移転しました。移転前の吉原が「元吉原」、移転後の吉原が「新吉原」と呼ばれました。
  • 万治元年(1658)、「江戸吉原萬治元年図」が須原屋市兵衛から発行されました。地図形式で描かれ、妓楼の場所が一目でわかるようになりました。大きな妓楼は三名分程度の遊女の源氏名が書かれています。この図には大夫3人、挌子67人、局369人、讃茶669人、次女郎1,104人、女郎数2,868人、轡屋弐153軒、揚屋19軒、茶屋上ケ屋町方18軒とあります。
    太夫は以前は70人以上いましたが、万治元年には吉原全体の太夫は大三浦屋のかかえた高雄、薄雲、花紫の3人だけになっています。太夫の人数は、この後享保の頃に十数人にまで増えますが、徐々に減少していきます。
  • 万治3年(1660年)、日本堤から新吉原・大門(おおもん)に至る五十間道に、茶屋が作られます。
  • 吉原評判記は多数発行されますが、名称はそれぞれ異なっていました。
    元禄7年(1694年)に遊女評判記「吉原草摺引」が発行されますが、幕府の出版統制で絶版とされ、版元や売った店が入牢させられます。この後、遊女一人一人の評判は書かず、新吉原の妓楼名の場所と遊女の名前等だけを掲載した形式になり、その後の吉原細見の形式となりました。江戸時代の出版業界は、幕府の出版統制との知恵比べが続きます。
  • 元禄年間、宝永年間、享保年間(1688~1736年)の頃は一枚の地図形式の案内図が発行されますが、それ以降あまり作られなくなります。宝永年間(1704年~)の頃からは、折りたたんでコンパクトに持ち運べる横長の冊子型の吉原細見が主流になり、1年~3年位の間隔で発行されます。色々な版元が出版しますが、当時有力な地本問屋・鱗形屋孫兵衛(鶴鱗堂)が版元の吉原細見が多く出版されました。
  • 享保元年(1716年)、八代将軍・徳川吉宗が幕府財政再建のために享保の改革を始めます。良い改革が行われましたが、倹約令や金銀改鋳により庶民の生活は節約が求められました。大名、旗本が吉原に通うことも幕府に咎められるようになり、豪商も大尽遊びを控えるようになり、揚代(あげだい)金を気にする節約型の遊びに変わっていきます。
  • 享保8年(1723)、吉原細見に遊女の合印(あいじるし)がかかれるようになります。合印は、遊女の格を示す記号です。格が高いほど揚代金も高くなるので、遊客は合印のおかげで財布と相談しやすくなりました。元文3年(1738年)になると、吉原細見に合印とともに揚代金も書かれるようになりました。
  • 寛保2年(1742年)、新吉原の中央通りである仲之町に、桜の時期に桜並木が出現しました。この年から毎年、春の桜の時期になると桜の樹を植え、桜の時期が終わると根ごと抜いて元に戻すようになり、桜の時期は新吉原はたいそう賑わいました。
  • 宝暦6年(1756年)、三浦屋四郎左衛門が廃絶し、玉屋の楼主・玉屋山三郎が惣名主となりました。
  • 明和4年(1767年)、最高格の遊女である「太夫」の数は減り続けていましたが、この年の吉原細見からは太夫がいなくなりました。元禄時代以降(1688年以降)で太夫が一番多かったのは、享保16年(1731年)の17人でした。吉原から高級遊女は減り、格が下級の遊女が増えていきます。この後、吉原細見の冒頭に書かれる遊女の格は、これまで下級であった格が更に下の方へ細かく分かれようになっていきます。大衆向けの遊びが主流になっていったことが伺えます。
  • 揚屋では格式の高い遊女を呼ぶ形式で、客が武士であれば刀を預かりました。大名、旗本などの上級武士が遊郭に行かなくなり、高級志向の遊び方が主流でなくなってきたため、揚屋も徐々に衰退していきます。
    宝暦9年(1759年)の吉原細見宝八木(版元鱗形屋)には揚屋町(あげやちょう)の通りに揚屋が並んでいますが、明和5年(1768)に吉原が全焼する火事があり、明和8年(1771)の黒仕立(新吉原細見)では揚屋がなくなっています。世界大百科事典によれば、「宝暦10年(1760年)ころには最後の一軒も消えた」そうです。
  • 安永4年(1775年)、耕書堂・蔦屋重三郎が吉原細見の版元の一つとして発行を始めました。
    それまでの吉原細見は横長の冊子で、通り毎に通りの片側の店の一覧を順番に見せる構成でした。通りの右側の一覧ページ、通りの左側の一覧ページという形でした。蔦屋はそれを縦長の冊子に変え、通りの左右の店を同時に一覧で見られるようにしたことが画期的でした。その場の情景が目に浮かぶような構成になり人気を博します。
  • 天明3年(1783年)頃、蔦屋重三郎が吉原細見の細見株を独占し、独占出版しました。
  • 天明7年(1787年)、天明の大飢饉によって「天明の打ちこわし」が各地で発生しました。この年に老中松平定信が寛政の改革をはじめ、寛政5年(1793年)まで改革が続きます。出版業界も綱紀粛正によって出版の統制を受け、罰を受けた者も出ました。
  • 寛政9年(1797年)、蔦屋重三郎が亡くなり、蔦屋の番頭が二代目の名前を継ぎます。この後の吉原細見は、ほぼ毎年に近い位の頻度で蔦屋から発行されました。
  • 文化7年(1810年)、式亭三馬が『式亭雑記』の中で、吉原が不景気で数年前に比べて名妓が半減したと嘆いています。
  • 弘化2年(1845年)、弘化3年(1846年)と2年連続して新吉原が火事で全焼しました。江戸時代に元吉原、新吉原をあわせると約20回全焼していますが、全焼すると吉原の外に仮宅(かりたく)を置いて営業することが許されました。仮宅は格式ばらずに揚代金も安くて人気でしたが、2年間ほぼ連続して街中で仮宅営業をしていると、遊客にとっては町中にある岡場所との違いの意識が薄まっていったのかもしれません。
  • 弘化4年(1847年)火事から再建された新吉原での営業が再開されますが、妓楼も入れ替わり、店の場所だいぶ変わってしまいました。この年には新吉原の一枚物の地図型の吉原細見が異なる版元から3種類発行されています。長らく地図型の細見は作られていなかったのですが、馴染みの遊女の店を探す客が多かったのでしょう。
  • 嘉永元年(1848年)に、蔦屋重三郎が四代目で廃絶し、玉屋山三郎が吉原細見の細見株を独占して独占出版しました。玉屋もほぼ毎年に近い間隔で新吉原細見を発行しました。
  • 慶應3年(1867年)、十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を上奏し、天皇が勅許しました。翌・慶応4年(1868年)の王政復古の大号令によって、江戸幕府が終わりました
  • 明治4年(1871年)、戸籍法が制定され、庄屋・名主などが廃止されて戸長、副戸長と改称されて職務範囲も変わっていきました。、玉屋山三郎は新吉原の惣名主ではなくなりました。
  • 明治5年(1870年)、明治時代に入ってからは、玉屋山三郎版の吉原細見は明治3年、明治5年の二回発行されましたが、明治5年の版が玉屋山三郎版の最後の吉原細見となります。
    明治政府は株仲間の解散を命じ、産業毎の同業組合が営業権を独占できなくなりました。玉屋山三郎も吉原細見株を失い、発行は独占できなくなります。
  • 明治5年(1872年)、明治政府が出した「芸娼妓解放令」、「前借金無効」によって、人身売買が禁止され、遊女が縛られていた前借金の返済が不要となりました。それでも当時女性が働き口を見つけるのは簡単ではなく、結局自分の意思で遊女屋で働いたり、私娼となったり、実質的には解放とはほど遠い現実でした。吉原はまだ続きましたが、江戸の頃とは変わっていきます。
  • 吉原細見は、明治時代にもその後も少なくとも3回、藤田吉右衛門版が発行されました。
    明治14年(1881年)、遊女屋、遊女はだいぶ少なくなり、角町、揚町、伏見町からは遊女屋が無くなりました。江戸町一丁目に長らく君臨していた新吉原の元惣名主・玉屋山三郎の店は無くなりました。明治15年(1882年)、前年はなかった揚町に10軒、角町に14軒の遊女屋ができました。明治17年(1884年) 、新吉原全体の遊女屋は96軒になって遊女も減り、かつて栄華を誇った新吉原も様変わりしました。
  • 新吉原は、明治44年の吉原大火、関東大地震による火事、東京大空襲、その他の大きな火事に見舞われますが、そのたびに再建されます。
  • 昭和33年(1958年)4月、売春防止法の施行によって吉原は終焉を迎えました

火事と仮宅

吉原(元吉原、新吉原)での火事は江戸時代を通して31回あり、全焼は22回あったそうです。
江戸全体では大きな火事は100回前後 (資料によって90回、110回、140回)発生しました。江戸全体では、大火事とは呼ばない主な火事まで含めると大火事の10倍以上あったそうです。特に大きかった江戸の広範囲にわたる3回が江戸三大火事と呼ばれました。明暦大火(明暦3年 (1657年)正月))、目黒行人坂大火(明和9年(1772年)2月)、丙寅(ひのえとら)大火((文化3年・丙寅の年(1806年))3月)の3回です。日本橋、京橋は2~3年に一度大火があり、日本橋の橋は10回焼け落ちました。火事の回数は、「大火事」と「普通の火事」を区別する基準の違い、一次資料の記録の差などにより、資料によって回数が異なっています。

江戸東京博物館のリファレンス事例集の記事によれば、新吉原の火事の際は、江戸の火消(消防夫)は五十間道の茶屋の上から鎮火するのを見守るだけで、吉原には入らなかったそうです。
火事で吉原が全焼した場合だけ仮宅(吉原の外での仮営業)が許され、仮宅での営業は格式ばらず揚代金も手軽で人気となり、かえって繁盛することが多く、敢えて消火活動をしなかったそうです。火事で亡くなった遊女や客もいたことでしょうが、幕府の定めでは全焼でないと吉原以外の仮宅での営業が許されません。中途半端な火事では妓楼を再建するまでの数か月間、仮宅営業ができず、売上がないまま遊女や使用人を遊ばせておくことはできなかったことでしょう。

参考資料

  • 吉原細見の資料
    • 論文 「吉原細見」の研究
      著者: 山城由紀子
      発行: 駒澤大学
      発行年:1977年
      http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/20500/KJ00005098161.pdf
    • 浮世絵文献資料館 ホームページ「吉原細見年表」
      編集製作: 加藤好夫
      https://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/hanponnenpyo/yosiwarasaiken.html
      この年表の原典は以下
      • 「吉原細見年表」 日本書誌学大系72・八木敬一、丹羽謙治共編・青裳堂書店・平成八年(1996)刊〕
      • 『江戸吉原叢刊』第七巻「吉原細見 宝永~明治」影印本〔江戸吉原叢刊刊行会編・八木書店・2011年刊〕
  • 吉原の資料
    • 書籍「江戸吉原図聚」 
      著者: 三谷一馬
      出版: 中央公論社
      ISBN: 4-12-201882-X
    • 書籍「江戸いろざと図譜」
      著者: 高橋幹夫
      発行: 青蛙房
      ISBN: 4-7905-0652-5
    • 書籍「図説 浮世絵に見る江戸吉原」
      監修: 佐藤要人
      編者: 藤原千恵子
      出版: 河出書房新社
      ISBN: 4-309-72604-6
    • 書籍「図説 吉原辞典」
      著者: 永井義男
      出版: 学研パブリッシング
      ISBN: 978-4-05-900809-5
    • 台東区図書館ホームページ
      郷土・資料調査室 パスファインダーNo.5 : 「吉原を知る」
      東京都台東区図書館にある吉原の資料一覧
      https://www.city.taito.lg.jp/library/service/sonota/pathfinder.files/kyodo_no5_yoshiwara4.pdf
  • 吉原の火事
    • 内閣府・防災のページ 「報告書(1855 安政江戸地震)」
      https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1855_ansei_edo_jishin/index.html
    • 東京消防ホームページ「江戸三大大火」
      https://www.tfd.metro.tokyo.lg.jp/learning/elib/times/times02.html
    • 浅草防犯健全協力会ホームページ「吉原『火の用心』」
      https://www.yoshiwara.tv/2504/
    • 江戸東京博物館・リファレンス事例集の記事
      「江戸時代において、火事の際は通常火消が建物を破壊して消火するが、吉原で火事が発生した際はあえてそれをしなかったのはなぜか。(2021年)」
      https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/purpose/library/reference/alphabet/35175/%e6%b1%9f%e6%88%b8%e6%99%82%e4%bb%a3%e3%81%ab%e3%81%8a%e3%81%84%e3%81%a6%e3%80%81%e7%81%ab%e4%ba%8b%e3%81%ae%e9%9a%9b%e3%81%af%e9%80%9a%e5%b8%b8%e7%81%ab%e6%b6%88%e3%81%8c%e5%bb%ba%e7%89%a9%e3%82%92
    • 写真と新聞記事で見る「吉原炎上」
      https://tanken.com/yosiwaraenjo.html

吉原細見 デジタル化版

図書館、博物館でデジタルコレクション、デジタルアーカイブで、著作権が切れている古文書をネットで公開しています。その中から、新吉原細見図と本ページを作成するにあったて参照したデジタル化された「吉原細見」を一覧にしました。こちらから吉原細見の現物を見ることができます。

元号形式冊子型細見名前版元デジタル文書・蔵書元URL
万治元年(1658)一枚物地図芳原細見圖須原屋市兵衛国会図書館https://dl.ndl.go.jp/pid/2542557
万治元年(1658)一枚物地図新吉原萬治元年図東京大学総合図書館https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100239772/
元禄4年(1691)一枚物地図吉原細見図江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-1106.html
元禄6年(1693)一枚物地図吉原細見図通油町四郎右衛門江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-1107.html
享保4年(1719)一枚物地図新吉原細見図東京大学総合図書館https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100239772/1?ln=ja
享保元13(1729)一枚物地図新吉原細見(題簽)新吉原江戸町某東京都・台東区立図書館https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000094-I1061
享保元19(1735)一枚物地図新吉原細見図東京大学総合図書館https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100239772/1?ln=ja
元文4年(1739)冊子吉原細見国会図書館https://cultural.jp/item/dignl-2539872
宝暦9年(1759)冊子宝八木(吉原細見)鱗形屋江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119241.html
明和8年(1771)冊子黒仕立(新吉原細見)鱗形屋孫兵衛東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000540-100010
安永2年(1773)冊子這?観玉盤(コノフミヅキ)鱗形屋江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119243.html
安永2年(1773)冊子寿薫色(新吉原細見)鱗形屋江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119242.html
寛政2年(1790)冊子吉原細見蔦屋重三郎江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119244.html
寛政4年(1792)冊子吉原細見蔦屋重三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001640-100010
寛政4年(1792)冊子吉原細見蔦屋重三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000840-100010
寛政7年(1795)冊子吉原細見蔦屋重三郎国立国会図書館https://dl.ndl.go.jp/pid/2539846
寛政9年(1797)冊子吉原細見蔦屋重三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000600-100010
寛政10年(1798)冊子吉原細見 五葉松(題簽)蔦屋重三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001420-100010
文化元年(1804)冊子吉原細見 五葉松蔦屋重三郎江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119247.html
文化4年(1807)冊子?原細見蔦屋重三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001130-100010
文化4年(1807)冊子新吉原細見蔦屋重三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001500-100010
文化6年(1809)冊子新吉原細見蔦屋重三郎江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119250.html
文化7年(1810)冊子新吉原細見蔦屋重三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001580-100010
文化15年(1818)冊子新吉原細見記蔦屋重三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000150-100010
文政2年(1819)冊子新吉原細見記蔦屋重三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001510-100010
文政6年(1823)冊子新吉原細見記蔦屋重三郎江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119250.html
文政8年(1825)冊子新吉原細見記蔦屋重三郎江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119251.html
文政9年(1826)冊子新吉原細見記蔦屋重三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000160-100010
天保7年(1836)冊子新吉原細見記蔦屋重三郎江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119254.html
天保8年(1837)冊子新吉原細見記蔦屋重三郎江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119255.html
天保14年(1843)冊子新吉原細見記山下半兵衛江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119257.html
天保15年(1844)冊子新吉原細見記山下半兵衛江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119258.html
弘化2年(1845)冊子新吉原細見記星野屋源次郎 ほか東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001060-100010
弘化2年(1845)冊子新吉原細見記山崎美成/序・著東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000910-100010
弘化2年(1845)冊子新吉原細見記山下半兵衛江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119259.html
弘化3年(1846)冊子仮宅細見星野屋源次郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001120-100010
弘化4年(1847)冊子吉原細見三河屋甚助国立国会図書館https://dl.ndl.go.jp/pid/2539874
弘化4年(1847)一枚物地図吉原弘化四年図国会図書館https://dl.ndl.go.jp/pid/2542638
弘化4年(1847)一枚物地図北里通全東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp060290-100060
弘化4年(1847)一枚物地図吉原新宅全図東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp060300-100060
弘化5年(1848)冊子新吉原細見記星野屋源次郎 ほか東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001030-100010
嘉永元年(1848)冊子新吉原細見記 玉屋山三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001200-100010
嘉永元年(1848)冊子新吉原細見記伊勢屋三次郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000180-100010
嘉永2年(1849)一枚物地図北里通全東京都・台東区立図書館 https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp060290-100060
嘉永2年(1849)冊子新吉原細見記 玉屋山三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000200-100010
嘉永2年(1849)冊子新吉原細見記 玉屋山三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000190-100010
嘉永4年(1851)冊子新吉原細見記 玉屋山三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001050-100010
嘉永4年(1851)冊子新吉原細見記 玉屋山三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000430-100010
嘉永5年(1852)冊子新吉原細見記 玉屋山三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001040-100010
安政2年(1855)冊子新吉原細見記 玉屋山三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000210-100010
安政3年(1856)冊子仮宅細見記笑顔屋源喜/序東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001380-100010
安政7年(1860)冊子新吉原細見記玉屋山三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000550-100010
安政7年(1860)冊子新吉原細見記玉屋山三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000400-100010
万延元年(1860)冊子新吉原細見記玉屋山三郎江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119274.html
万延元年(1860)鳥瞰図浮世絵東都新吉原一覧金鱗堂 尾張屋清七東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp053720-100050
文久2年(1862)冊子新吉原細見記玉屋山三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001060-100010
文久3年(1863)冊子新吉原細見記玉屋山三郎国立国会図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001070-100010
慶応元年(1865)冊子大江戸さいけん玉家如山江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119285.html
慶応4年(1868)冊子新吉原細見記玉屋山三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp000230-100010
明治3年(1870)冊子新吉原細見記玉屋山三郎江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119278.html
明治5年(1872)冊子新吉原細見記玉屋山三郎東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001320-100010
明治13年(1880)冊子改正新よし原細見記児玉弥七東京都・台東区立図書館https://adeac.jp/taito-lib/catalog/mp001330-100010
明治14年(1881)冊子新吉原細見記藤田吉右衛門東京都・台東区立図書館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119279.html
明治15年(1882)冊子新吉原細見記藤田吉右衛門江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119280.html
明治17年(1884)冊子新吉原細見記藤田吉右衛門江戸東京博物館https://www.edohakuarchives.jp/detail-119281.html