文久2年(1862年)の吉原遊廓の鳥瞰図です。

浅草新吉原図
浅草新吉原図

江戸では吉原だけが幕府にゆるされた遊郭でした。それ以外の遊郭は岡場所と呼ばれていました。
新吉原は、浅草の浅草寺の北西方向の浅草千束にありました。江戸の街ができた当初は日本橋葺屋町(ふきやちょう)(葺屋町は現在の日本橋人形町のあたり)にありましたが、明暦の大火(明暦2年=1656年)の後にこの場所に移されました。元の場所を吉原または「元吉原」、こちらを「新吉原」と呼びました。

吉原に行く道順
この図は上が南西での方角です。下に日本堤の道とそれに沿った山谷堀(=音無川(おとなしがわ))が見えます。日本堤を図の左(南東)に行くと大川(隅田川)、図の右(北西)に行くと蓑輪です。遊郭の客が吉原へ行くには四つの道順があり、いずれも日本堤に出ました。

歩くか籠で行く場会
・浅草寺の裏の田んぼ道を通って田町二丁目(画面左下)から日本堤へ出る道
・浅草寺の東脇の馬道を通る道
・蓑輪(北西)から日本堤へ出る道
猪牙船(ちょきぶね)で日本堤へ出る場合
・柳橋(両国橋近くの神田川の北側)の船宿から大川を北にのぼる

日本堤からは、絵図の下の真ん中あたりの衣紋坂(えもんざか)を登って「大門」(おおもん)をくぐって遊郭に入ります。

【大門の中】
大門は吉原の唯一の出入口で、大門の右手に四郎会所という出入を監視する場所がありました。大門から江戸町一丁目沿いに最も高級な引手茶屋があり七軒茶屋と呼ばれました。大門から入って真っすぐの道は「仲の町通り」で、この通り沿いに引手茶屋が並んでいます。

一番格が上な「大見世」では、初めて登楼するときは引手茶屋の紹介が必ず必要でしたが、その下の格の「中見世」「小見世」では紹介がなくても登楼させることがありました。江戸町一丁目に大見世、仲見世が多かったようです。
吉原の端(図上での左右の端)の西川岸、羅生門川岸は切見世(きりみせ)などと呼ばれた一番格の低い見世でした。

大門から入って仲の町通りの突き当りが「水戸尻」で、火伏(防火)の神様である秋葉権現を祀った秋葉常灯明がありました。その隣に火の見やぐらがありましたが、天保時代(1830~1844)頃なくなりました。鳥観図でも火の見やぐらが見えるので、天保時代までの絵図ということでしょう。

廓の四隅には四つの稲荷社(九郎助稲荷、明石稲荷、開運稲荷、榎本稲荷)がありました。九郎助稲荷が廓の総鎮守として知られていました。

仲の町通りには昼間に市がたちました。江戸町二丁目の角に青物市場、角町の角に肴(さかな)市場がたちました。

吉原からの帰り
夜間は四つ(午後十時)に大門が閉められいました。朝が明けると開かれます。大門の外には朝帰り客を待つ籠がいました。
吉原からの帰りに、大門を出て日本堤に出たところに「見返り柳」があります。この柳のあたりで名残を惜しんで振返ったことから名前がつけられたと言われ、広重の浮世絵にも描かれています。

鳥瞰図・拡大画像の場所説明について

拡大画像を開いてから、「場所説明ON/OFF」ボタンで場所の説明を表示または消去することができます

立川氏は鳥観図と同じサイズの解説図を描いていますが、Web画像でご紹介するには詳細情報が多く文字が細かくなってしまう、鳥観図に重ねて表示できるように簡略化して作成し直しています。場所の説明文字は以下のように色分けしています。

黄色: 地名、町名、川の名等
緑色: 商家、町屋敷等
水色: 御公儀の屋敷、大名屋敷、武家屋敷
桃色: 寺社
赤色: 遊興場所

参考資料

「錦絵でたのしむ江戸の名所ー新吉原」 (国会図書館デジタルライブラリー)

・ 「江戸吉原図聚」 三谷一馬著 中公文庫 ISBN4-12-201882-X
・ 「図説 吉原事典」 永井義男著 学研文庫 ISBN978-4-05-900809-5