文久2年(1862年)の上野、浅草、本所、向島あたりの鳥瞰図です。大川(現在の隅田川)を挟んで西側(図の左側)に駒込、上野、浅草、小伝馬町があり、東側(図の右側)が向島(むこうじま)、本所(ほんじょ)です。この原図は120cm×80cmの図です。

江戸鳥観図「上野、浅草、本所向島」
江戸鳥観図「上野、浅草、本所向島」 立川博章画

 

【上野、浅草】
上野寛永寺は江戸城北東側の鬼門、増上寺は江戸城南西側の裏鬼門を護る陰陽道の要所であると言われています。
「吉原」が浅草寺の北にありますが、明暦の大火(振袖火事)(1657年)で街中にあった吉原が江戸のはずれの浅草田んぼに移され「新吉原」となりました。
隅田川沿いの「御米蔵」は、全国から船で運ばれてきた米を保管する蔵で、現在の「蔵前」にあたります。

【大川(隅田川)の橋】
鳥瞰図の上下(南北)方向に流れている大きな川は、「大川」、即ち現在の隅田川です。
江戸時代に大川に架けられた橋は、千住大橋(文禄3年=1591)、両国橋(寛文元年=1661)、新大橋(元禄6年=1693)、永代橋(元禄9年=1696)、吾妻橋(安永3年=1774)の順番に作られました。この鳥瞰図には吾妻橋と両国橋が見えます。当時の橋の場所は、現在の場所とは少しづつ異なっています。

【両国橋】
江戸時代初期は、隅田川の西側が江戸、東側が下総国(しもうさこく)で、二つの国の間に渡された橋なので両国橋と呼ばれます。この図面の中で見える隅田川に架かっている他の橋は、北の方の吾妻橋です。江戸時代は現在ほど橋の数は多くなく、あとは渡し舟が使われていました。鳥瞰図には渡し船の船着き場の様子も描かれています。

両国橋の東西のたもとには、火除け地(火事の延焼を防ぐための明地)があり、両国広小路と呼ばれました。両国西広小路には芝居小屋、見世物小屋、露店が幾つもあり、江戸の遊興街でした。黄色い四角形の建物が芝居小屋です。

両国橋と両国西広小路
両国橋と両国西広小路

【浅草御米蔵、本所御竹蔵】
隅田川を挟んだ両岸にある幕府直轄の「浅草御米蔵」と「本所御竹蔵」です。

幕府直轄の天領から運ばれた米が、御米蔵に保管され、旗本、御家人の俸禄となっていました。蔵が連なっており、隅田川から船がそのまま蔵に米を運び込めるようになっています。この時代は船が江戸の重要な輸送手段でした。
東岸の本所御米蔵の場所は、現在の国技館、江戸東京博物館にあたります。

浅草、領国米蔵
浅草、領国米蔵

【今戸、河原町、待乳山聖天社】
次の図は、大川端の今戸町、瓦町付近の拡大図です。 瓦を焼くための窯の煙があがっているのが見えます。隅田川から右図の左上につながっている掘割は「山谷堀(さんやぼり)」で、新吉原に続いています。この当時、通人は猪牙船(ちょきぶね)で隅田川から山谷堀を通って、新吉原に通ったそうです。

山谷堀にかかっているのが今戸橋です。今戸橋の左にある朱色の建物が、待乳山聖天社(まつちやましょうでん)です。この待乳山聖天社の左上に新吉原が描かれていますので探してみてください。

今戸、河原町
今戸、河原町の拡大図

【本所】
本所には武家屋敷が多くありました。両国橋の近くに回向院がありますが、明暦の大火で亡くなった沢山の人を弔うために「万人塚」が建てられたのが本所回向院の始まりです。堅川から南が深川になります。

【向島】
大川の東側の向島と本所の間には北十間川が流れています。北十間川の北側が向島、南側が本所です。向島のこの図の範囲には梅屋敷があり、今も向島百花園として続いています。