浅草寺とその界隈の文久2年(1862年)の鳥瞰図です。浅草寺を中心として東は大川(今の隅田川、浅草川、宮戸川とも言います)から西は浅草寺火除地(今の浅草六区、国際通り)、南は雷門までの鳥瞰図です。

浅草寺界隈図
江戸鳥観図「浅草寺界隈図」 立川博章画

【浅草寺】
幕末・文久2年(1862年)の頃の浅草寺の寺内には、沢山の社、寺を勧請していたのでで、ぐるっと周って御参りすると、さぞや沢山の神仏のご利益があったことでしょう。鳥観図の下中央あたりに雷門が見えます。雷門の大提灯にはこの頃には江戸時代の広重の浮世絵にあるように「志ん橋」と描かれていました。五重塔は雷門、仲見世からみて現代は左手にありますが、当時は宝蔵門(仁王門)の右手にありました。雷門、仲見世、宝蔵門(仁王門)から本堂にいたる様子は今と同様です。
浅草寺の境内の中には、芝居小屋、講談小屋、見世物小屋、弓場、水茶屋があり、大遊興施設となっていました。

【芝居町の猿若町】
浅草寺の東側(図の右上)の猿若町には芝居小屋が集まっているのが見えます。中村座、市村座、河原崎座、森田座などの大きな芝居小屋をはじめ、小さな芝居小屋、人形浄瑠璃の芝居小屋も集まって賑わいました。猿若町は「芝居町」と呼ばれました。
水野忠邦の天保の改革(天保12年(1841年)~天保14年(1843年))では、財政引締め等の他に町民の奢侈取締、風紀粛清を行い、危うく江戸の芝居小屋が廃止されるところでしたが、遠山左衛門尉景元(遠山の金さんのモデル)の建言によって廃止ではなく一か所に集めることになり、葺屋町(日本橋の東)などにあった芝居小屋が猿若町に集められました。

【吉原への道】
浅草寺の北には吉原がありますが、吉原に向かうには浅草寺の東側の馬道通りか、浅草寺の裏手から田んぼ道を北に向かって日本堤に出る道を通って行きました。

参考資料

名所江戸百景「浅草金竜山」 広重画 (国立国会図書館デジタルコレクション)
錦絵でたのしむ江戸の名所 「浅草寺」(国立国会図書館デジタルコレクション)