幕末・文久2年(1862年)の御江戸で最も繁盛していた中心地、日本橋を中心とした周辺の図です。右側が北方向です。
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日本橋周辺が江戸で一番栄えていた商売の中心地で、神田須田町から日本橋、更に南(図の左外)にある京橋まで(現代の中央通り沿い)大店が並んでいました。三井越後屋呉服店(今の三越)、山本海苔、木屋(刃物)、八木長(出汁 材料)、太和屋(鰹節)などの現在に続く老舗の大店がありました。
※【鳥瞰図上の解説について】江戸鳥観図「日本橋図」には、立川博章氏の場所の解説図が無いため、嘉永三年(1850年)の尾張屋清七版の切絵図に基づいて鳥瞰図上の地名を記載しています。切絵図に無い建物は江戸名所図会一巻を元に記載しています。
鳥瞰図の場所解説は、拡大画像を表示してから「場所解説ON/OFF」のボタンで表示することができます。
【魚河岸と輸送路】
図の左縦に流れている日本橋川沿いの北側に魚河岸が並んでいました。太平洋側でとれた魚は利根川を船で木下まで運び、木下から「鮮魚街道」を通って松戸まで陸路で運ばれ、松戸から行徳(現代の市川市行徳)まで江戸川を船で運び、行徳から船で江戸まで運ばれました。魚は幕府に納めてから魚河岸で売られました。
当時の輸送を担っていたのは船で、江戸の街中に掘割や川があり、船が町中を走っていました。また船で運ばれてきた荷物は、川や掘に沿った蔵に貯蔵されました。日本橋川や堀留の堀沿いにも沢山の蔵があるのが見えます。日本橋周辺は商業と運輸の拠点地でした。
【通町(とおりちょう)付近の名所】
日本橋を中心に北へは今川橋を通って須田町まで、南へは京橋、新橋、金杉橋までの通りをまとめて「通町」(とおりちょう)と呼び、にぎわった道筋です。。現在の中央通りにあたります。この近辺の名所を江戸名所図会などからご紹介します。
・本町三丁目のに薬種屋「長崎屋」がありました。オランダ東インド会社の一行が江戸で止まる定宿になっていました。現在のJR新日本橋駅のあたりです。
・江戸市中に九か所あった「時の鐘」の鐘の一つが本石町三丁目にありました。他には浅草寺、本所横川町、上野、芝切通、市ヶ谷八幡、目白不動、赤坂田町成願寺、四谷天竜寺にありました。
・十軒店では桃の節句には雛人形の市がたち、端午の節句には兜人形、菖蒲刀などが並べられ、大層にぎわいました。
【五街道の起点・日本橋】
日本橋はまた、日本全国へ続く五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点です。「御江戸日本橋七つたち」の唄があるように暁七つ(午前4時頃)にまだ暗い頃に日本橋を出発して、東海道を歩いて行くと高輪で夜が明けて提灯が要らなくなるといった旅行の様子でした。
【昔の芝居町】
鳥瞰図の下中央より左のあたりに葺屋町(ふきやちょう)があります。このあたりはかつては芝居小屋が集まって芝居町として賑わっていましたが、天保の改革(天保12年(1841年)~天保14年(1843年))によって浅草寺の東北側の隣りの猿若町に移転されました。この東側(図の下側の外)は人形浄瑠璃の芝居小屋があって人形町と呼ばれました。今もその名前は残っています。そのあたりが明暦の大火(明暦2年、1656年)前までは吉原遊郭があった場所で「元吉原」と呼ばれました。