文久2年(1862年)の江戸城から北、北西側の鳥瞰図です。
東は千住村から西は王子、飛鳥山、三河島、下練馬、板橋宿までの図です。
図の右下の池が「不忍池」で、夏は蓮の花が美しく名所でした。江戸城の北西の鬼門を護ると言われる上野寛永寺があり、湯島天神、神田明神も図の右下に見えます。
図の下側を右(東)から左(西)に見ていくと、現在も「後楽園」と呼ばれる常磐国水戸藩徳川殿(水戸殿)の下屋敷があります。図の下真ん中あたりが神楽坂、更に左を見ると尾張藩徳川殿の下屋敷「戸田亭」(戸田屋敷)があります。屋敷には東海道を模した庭が造られ箱根山、滝、茶屋、池などがあり、招かれた大名はたいそう驚き楽しんだそうです。大名屋敷なので庶民が見られる名所ではありませんが、今は戸田公園、早稲田大学になっています。
【護国寺】
図の中央より少し下に「護国寺」「御持院」があります。護国寺は五代将軍綱吉の生母、桂昌院の発願いで建てられました。護国寺の東にある御持院は幕府の祈願所でした。火事で焼失した後に本坊だけが残り火除け地(防災のための空いた土地)となり「御寺院が原」と呼ばれました。当時の目白不動尊は、現在の場所とは異なり小日向の北の関口にありました。護国寺へは、目白不動尊の東の音羽町の参道から北にあがって行きました。
【雑司ヶ谷】
護国寺の北西に雑司ヶ谷村があり、雑司ヶ谷鬼子母神堂や将軍の狩りのための鷹を管理する御鷹屋敷がありました。この西側、北側は徳川家の狩りの場所で、「御留山」(おとめやま)は将軍の狩りのために村人の狩猟がとめられていた場所で、現代の「おとめ公園」のあたりです。
この図の右下外側になりますが「日本橋」の橋から北(上)に向かって筋違橋御門を通り神田明神の西側を北にのぼっていく道が中山道です。加賀藩の屋敷の表門(現在の東京大学の赤門)を過ぎて、根津神社、白山神社、駒込大観音(光源寺)の近くを通りながら北西に進みます。やがて小石川の「御薬園」を右手に見えてきますが、ここでは薬草の栽培をして薬を作っていました。板橋宿の手前に三軒の茶屋があり、そこを右(北東)に曲がって、王子権現、王子稲荷に御参りしました。
茶屋で曲がらずに真っすぐに行くと板橋宿を通り、更に中山道を北上していきました。中山道は、高崎、軽井沢、下諏訪、木曽路、関ケ原、草津の宿場を通って京都の三上大橋に至る道です。
日本橋から不忍池、寛永寺の東側の道を通り、とげぬき地蔵(高岩寺)を過ぎて道なりに北東方向に進む道が日光街道です。入谷鬼子母神堂を過ぎて小塚原町を通って千住大橋を渡って宿場町である千住宿に至ります。千住宿を過ぎて真っすぐ行けば日光街道、左(北西)に曲がって進のが奥羽街道です。