文久2年(1862年)の江戸城から東南方向の、大川(隅田川)の東にある深川、本所の南端、亀戸から中川までを描いた鳥瞰図です。
この北側の鳥瞰図が「城東図その二」です。

城東その一
江戸鳥観図「城東その一」 立川博章画

【大川周辺】
鳥瞰図左側を流れる大川(隅田川)は、当時は浅草川とも呼ばれました。この川沿いには、全国から船で運ばれてきた米を保管する御米蔵があります。
御米蔵の川端にある「首尾の松」の由来は諸説ありますが、一説には吉原に向かう猪牙船の上の客が遊郭で首尾よくいくように願掛けをしたそうです。
大川に西側の御米蔵の西隣りに江戸幕府の役所機関である「頒暦所御用屋敷」(天文屋敷)があります。暦を作るための天体観測を行っていました。
伊能忠敬もここで学んだと言います。

【両国橋、回向院】
江戸初期の明暦3年(1657年)に発生した明暦の大火によって、江戸の町の6割が焼失し10万人を超す死傷者が出たと言われています。
大川(現在の隅田川)には当時この付近に橋がなく、被害が拡大したことから両国橋が作られました。また東岸の湿地帯であった本所、深川を開拓して江戸の町を拡大して復興をはかりました。
両国橋は江戸初期は二つの国にまたがって架けられたために名づけられました。当時は橋の西側が武蔵国(江戸)、東側が下総国でした。江戸の範囲が広がったために江戸末期は深川も武蔵国の一部でした。

「回向院」は明暦の大火の犠牲者の無縁仏を供養するために、四代将軍・徳川家綱が建立されました。その後勧進相撲が開かれるようになり、回向院相撲が定期的に開催されました。

【深川】
回向院の南を東西に走る川が堅川ですが、この北側が本所、南側が深川です。
広がり続ける江戸の町の建築や、火事があった場合の再建に必要となる材木を集積した材木の保管所が作られました。深川木場町は町民の材木保管場所、猿江御材木蔵は幕府が保管した場所でした。
深川の芸者衆が人気になりましたが、岡場所(幕府非公認の遊郭)も作られ繁栄しました。

【三十三間堂、永代寺、富岡八幡宮】
富岡八幡宮の東に三十三間堂という仏堂がありました。通し矢の場が作られ通し矢がはやりました。
当時は富岡八幡宮よりも隣の永代寺の方が大きく、門前町は富岡八幡宮の門前町でなはく永代寺門前町でした。明治時代の神仏分離令によって永代寺は破却されましたが、再興されて今に至ります。

【深川十万坪、六万坪、州崎】
深川は埋立と湿地の改良を繰り返し、開発されていきました。深川十万坪は干潟を生みたてて新田開発された土地ですが、高潮の被害で人が住むのには適していませんでしたが、洲崎とともに景色が良い名所となっていました。深川十万坪はその後一ツ橋徳川家の領地になりました。深川六万坪も埋立られた土地です。

【亀戸天神】
鳥瞰図の中央上部に「亀戸天神」が見えます。正保三年(1646)に創立され、四代将軍家綱公が明暦の大火の復興のため、鎮守の神様として祀ったと伝えられています。
江戸時代から藤の名所として知られていました。